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松岡正剛の千夜千冊・1666夜

松岡正剛の千夜千冊・1666夜
茨木のり子
『倚りかからず』
しかし、ぼくはそのことに感心してきたわけではなかった。元来、ぼくは表現者たちにおける「ふつう」の標榜を信用していない。「ふつう」を装う思想ほどあやしいものはない。それよりもぼくは、茨木にときおり出入りする「怒りが香る」ということ、あるいは「香りつつ怒る」ということに惹かれてきた。怒りそのものでもなく香りばかりでなく、「いかり」と「かおり」が混ざっている。重なっている。分けられない。ぶれないとしたら、そこなのだ。
 「お待ち いまに息の根をとめてあげる がりがりとたうきびでもかじりたい日だ だまって 私の言ふとほりにおなり」と始まる。
 ばさばさに乾いてゆく心を
 ひとのせいにはするな
 みずから水やりを怠っておいて
 もはや
 できあいの思想には倚りかかりたくない
 もはや
 …
 茨木のり子の魅力は何だったのだろうか。なるほどと思ったのは、谷川俊太郎が選んだ『茨木のり子詩集』(岩波文庫)に小池昌代の「水音たかく」という解説が入っているのだが、そこに茨木の詩は「ある遅れを最初から持っている」と書いていたことだ。そうか、「遅れ」なのか。
 なるほど、そうかもしれない。とてもうまく茨木をあらわしている。マルセル・デュシャン(57夜)も「遅滞」こそがアートになっていくと言っていた。
 「言葉が多すぎる と言うより 言葉らしきものが多すぎる というより 言葉と言えるほどのものが無い…」



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