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松岡正剛の千夜千冊・1692夜

松岡正剛の千夜千冊・1692夜
小林信彦
『名人
 - 志ん生、そして志ん朝 - 』
 とくに志ん朝は若い時期からさまざまに変化変容し、深みも軽妙も爛熟もおこしていった (0991夜) から、そのどこを見るかで「志ん朝の中の志ん生」があれこれ彩れる。そのあたりの案配のこと、志ん生の長女の美濃部美津子による『三人噺―志ん生・馬生・志ん朝』(扶桑社→文春文庫)がうまく書いている。
 志ん朝は昭和13年の生まれで、獨協高校ではドイツ語も好き、役者も好きという青年だったが、親父に説得されて昭和32年に噺家になったところ、5年で真打に昇進した。たちまち評判が立った。桂文楽170夜は志ん生に「円朝(787夜)を継げるのは、あなたの息子だナ」と言ったほどで、談志も「金を払って聞く価値があるのは志ん朝だけだ」と言っていた。
 志ん生はつねに桂文楽にくらべられた。文楽が楷書なら志ん生は草書だとか、文楽が文学なら志ん生は俳諧だとか、文楽がスクウェアなら志ん生はヒップだとか、言われてきた。(0081夜
 徳川夢声(642夜)は文楽がクラシック音楽なら、志ん生はジャズだと言った。これはぼくの言い草だが、文楽が「折り目」なら、志ん生は「しわ」なのである。
 いま、落語についての本はピンからキリまでかなり多い。へらへらなものもあるし、へなへなもある。ネタばらしだけのものも、笑いに片寄ったものも目立つ。立川談志(837夜)が早々にぶちかました。『現代落語論』(三一新書、1965)などの快著は、めったにない。
 けれども昔からの定番となると、長らくのあいだ、正岡容、安藤鶴夫(510夜)、関山和夫、小島貞二、江國滋だった。本書の小林信彦もこの系譜につらなると見ていい。そこで、ざっとながらこの五匠を案内しておく。
 それでは、志ん生について。
 本名が美濃部孝蔵というのはあまりに堅い名前でピンとこないが(本名とはそんなものだが)、高座名のほうも16回も変えていて、5代目志ん生になったのは昭和14年だった。49歳である。貧乏時代も長く、博打や酒に耽りすぎいたせいだとは言わないが(そのせいも大きかったが)、不遇時代が続いた。三升屋小勝に楯ついて干されたこともあった。
 志ん生が得意なのは、志ん生自身がそう言っているのだが、「ついでに生きている人たち」(1576夜) を演じているときだ。この「ついでに」や「つもり」がいい。志ん生の話っぷりは、なんてったって「ついで」の独壇場なのだ。そこに得体のしれない「融通無碍」と「天衣無縫」が横溢する。(1000夜
 ところが、『らくだ』の遊び人、『黄金餅』の破戒坊主、『三軒長屋』の鉄火な姐御(あねご)などになると、これは志ん生しかあらわせない人物になる。「ついでに生きている」という風情が存分に出てくる。こうなると志ん生の「ずぼら」が生きてきて、噺を動かす「いいかげん」の凄味がたまらない。(1123夜
 志ん朝の本名は美濃部強次といった。親父が絶頂を迎えていた昭和31年に高枝を卒業して、東京外語大を受けたときは外交官志望だった。さいわい大学は不合格で、翌年、古今亭朝太として落語修行を始めた。落語が好きでもなく、ジャズのドラマーになりたい口だったが、親孝行だったらしく、父親の勧めに従ったというのが真相のようだ。
 志ん朝には「品」があったのである。品格や品性が通っていた (0590夜)。噺の具合やそれを語る気分をごちゃごちゃにしなかった。そう言っていいなら、高座が汚れなかった。志ん朝の落語は「綺麗」だったのだ。
 志ん生の芸は曖昧の極みに遊んだものだったが、志ん朝は遊んだというよりも、「遊んだ者たち」(0772夜) を話すことを極めたのである。志ん生は「よどみ」を好んだけれど、志ん朝はその「よどみ」が折りたためた。











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