松岡正剛の千夜千冊・1693夜
桂米朝
『一芸一談』
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一つ、桂米朝は昭和そのものである。はっきり、そう言える。二つ、師の正岡容(まさおか・いるる)と桂米団治の教えを実直に守る生涯をおくった。三つ、上方落語の復興のために自らの芸を磨きつつ、ひたすら上方演芸文化を愛した。その姿勢は研究者に近かった。
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昭和18年に上京して、池袋の大東文化学院(いまの大東文化大学)に入るのだが(男子校で、漢学主義の学校だ)、新聞で見た寄席文化向上会が寄席相撲を開催するという告知に興味をもって、大塚の鈴本に見に行った。このとき検査役として桂文楽の隣りにこの会の主宰者がいた。正岡容だ。
売店で正岡の『円朝(787夜)』を買って、帰って読んだ。扉に「路地の奥 寄席の灯見ゆる深雪かな」という句がサインしてあった。感動した。これが病膏肓のはじまりである。すぐさま風変わりな演芸研究家でもあった正岡に入門した(落語家で研究者に〝入門〟したのは米朝が初めてだ)。
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一方で一門を結成する努力を開始した。桂米朝落語研究会はその後もずうっと休みなく続いている。昭和49年に株式会社米朝事務所を設立すると(この立ち上げは早かった)、月亭可朝、桂枝雀、桂ざこば、5代目米団治ほか、月亭八方、桂南光、桂吉弥らを育てた。吉本全盛時代が到来しつつあったなか (1123夜) 、このプロダクション・システムも早かった。枝雀は爆発した。一門は一人の破門もつくらなかった。
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青空文庫「正岡 容」URL> https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1313.html