松岡正剛の千夜千冊・1696夜
養老孟司
『遺言。』
〜
気にいらないことなんて、誰だっていくらもあろうが、ぼくは20代の頃、自分を含めて「若者たらんとすること (0465夜) 全般」にどうにも納得できなかった。
〜
動物は感覚所与で生きている。「まる」も言葉の音には反応するが、意味はわからない。文字もわからない。
感覚所与で何をしているかといえば、「変化」を捉える。これが動物の生き方の根本になる。われわれ人間はどうしているかといえば、やはり「変化」を捉えるのだが、感覚所与をすぐさま意味に変換できるようにしてきた。「こげくさい」という感覚所与はただちに台所の鍋が焦げたか、どこかで不審火が燃えているというふうに思う。
そのうち変化の現象には概念や数値が与えられて(1601夜) 、いちいち感覚をつかわなくても変化に対応するようにした。賞味期限はそうやって登場した。
〜
人間が変化に対する対応を固定できたのは、ひとつには、「=」(イコール)を理解するようになったからである。
〜
もうひとつには、自分と相手とのあいだで「交換」が成立するようにした。これも大変な変化への対応だった。
5歳児がお姉さんの立場に立つことができるのは、自分とお姉さんをなんらかの意図で交換できるからである。同様の意味で商人たちは北海の毛皮一枚と地中海の小麦何袋かを交換し、それが等価であることに自信をもった。やがてここからはそういう等価交換を示す通貨のようなものが派生した。
養老さんはこうした「イコール」と「交換」が、人間社会の「差異と同一性」をつくってきたと見ている。そして、このことが人間の「意識」の特徴になったのだと見た。この特徴とは「同じだとみなすはたらき」のことをいう。これは逆に「違い」のはたらきも確立させた。
〜
意識がもたらした「同じ」の仕掛けのなかで、最も煩わしいのが「私」ということである。「私」という自己意識だ。
〜
この見方は、別の観点では「面影」とは何かということにもつながっている。われわれには「同一化」も「差異化」もできないような面影の領域というものがあって、『徒然草』(367夜)に「名を聞くよりやがて面影は推しはからるる心地する」とあるように、実物がそこになくともイメージが彷彿としてくる面影が去来してきたのである。
面影のおもしろさは、日本文化に特有な「見立て」にも転化する。それは何かに似ているとか、何かに似せて何かをつくるとか、見立ては「同じ」そのものから逸脱して何か新たな「同じっぽい」を生成する。
〜
そんなわけで、ぼくは存在や実在にひそむはずのコンティンジェントな「別様の可能性」 (1350夜) のほうに多大な関心を寄せてきたのである。
さて、それなら、これらのことがぼくなりの遺言なのかというと、遺言というほどのものではない。ぼくの思考のありさまそのもので、いつだって封を開けてほしいものなのだ。
〜