松岡正剛の千夜千冊・1698夜
フレッド・ドレツキ
『心を自然化する』
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できない相談なのだが、それならぼくはどうして今夜の千夜千冊にドレツキの外在的表象主義の一端をとりあげたのか。
それは、心や魂の問題は「外に出す」ことによってしか議論できないだろうと、あるいは、「内」を外にするときのインターフェース(膜的なるもの)そのものに心や魂の特性の一部を付与しないかぎり議論にならないのではないだろうと、ぼく自身が昔から考えてきたからなのである。
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もうひとつ、付け加えておきたい。それは内観主義を葬り去ってはまずいだろうということだ。内側を覗くだけの内観主義には限界があるが、内側に紛れている外側を観照する方法だって、ある。内観は少し残しておくべきなのだ。さらには荘子(726夜)やホワイトヘッド(995夜・1267夜)や湯川秀樹(828夜)がそうしたのだが、そもそも内側にはいろいろ隙間や非局所性や外部痕跡があって、それらを含めてネクサス状態が広がっていると見ることも可能なのである。
内側に残る痕跡を見つめて、これを外在化するためのインターフェースを想定していくこと、これがぼくの好きなやりかたなのである。
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