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松岡正剛の千夜千冊・1701夜

松岡正剛の千夜千冊・1701夜
スーザン・ストラッサー
『欲望を生み出す社会
 - アメリカ大量消費社会の成立史 - 』
 本書は、陽気で厚顔無恥なアメリカン・デイリーライフを昂揚させた多くの商品の起爆的トリガーが、ほとんど20世紀初頭の商品開発とマーケティングと企業キャンペーンによって成立していたことを事細かに解読した。
 話は19世紀末に始まっていた。コダックのカメラ(1888)、コルゲートの練り歯磨(1896)、ジレットの安全カミソリ(1901)、コカイン抜きのコカ・コーラ(1903)などが先行し…
 P&Gがクリスコ(Crisco)を発売したのは1912年である。クリスコは固形の植物性ショートニング(食用油脂)で、それまで食肉解体プロセスからつくられてきた動物性油脂に代わるものとして、実験室がつくりだした。クリスコをつかうとパンや焼き菓子がさっくりと焼き上がる。これはいける。P&Gはこの発売に勝負をかけた。
 製品の拡販を引き受けたのはウォルター・トンプソン社のスタンレー・リゾーと、のちに結婚相手になるヘレン・ランズダウンだった。ランズダウンは広告殿堂入りした最初の女性だ。
 爆発的に売れた。それとともにクリスコの広報戦略は、その後のアメリカのマーケティング、パブリシティ、キャンペーンのモデルとなったのである。いずれも20世紀の20年代までの出来事だ。明確なシナリオがあった。それはアメリカ人を一人ずつ顧客にしていくというのではなく、一挙に「消費者という別人格にする」というシナリオだ。
 顧客(customer)から消費者(consumer)へ。カスタマーはお店に来てくれるお得意さんだが、新アメリカのコンシューマーは「財とサービスを費やす多数派主人公」になった。どうしてこんなシナリオがアメリカで実現できたのか。
 アメリカが大量欲望消費社会だって? そりゃその通りだろう、言われるまでもない。何をいまさらと誰もがそう思っているだろうが、ではなぜそうなったのか、なぜアメリカにそれがおこったのか、そのアメリカンな物語がどうしてグローバルに広がったのか、なかなかうまく説明できなかった。
 おそらくは組織経営にばかり目が向いて、「企業―商品―欲望―消費」という連鎖が浮上してこなかったからだ。とくに「欲望」の実態があいまいなままだった。ストラッサーはそこに分け入ることにした。
 ただし、この連鎖に鮮やかに最初にクサビを打ち込み、「生産―欲望―消費」の関係から記号性を引き出してみせたのは、残念ながらストラッサーでもアメリカ人の学者でもなく、フランス人の社会学者だった。アンリ・ルフェーブルの助手をしていたマルクス主義者ジャン・ボードリヤール(639夜)だ。
 博士論文をふくらませた『物の体系』では、コードを組み合わせた商品がつくりだすモードを分析してみせ(バルトの『モードの体系』の影響が大きかった)、続く『消費社会の神話と構造』(1970)では、消費が経済行為ではなく言語活動であると捉えて、商品にひそむ欲望記号を取り出しはじめたのである。消費社会の動向を言語思想や記号論で解くなんて、かなり斬新な見方の出現だった。
 チューブ歯磨や歯ブラシを売るには「歯を磨く習慣」をつくる必要がある。その習慣は爽快で、気分よく続けたくなるものでなければならない。シャンプーが売れるにはバスルームでどんな恰好で「シャンプーを愉しむ習慣」が継続できるかが見えなくてはならず、男の髭そり剃刀が売れるには、それが「男の朝を代表する習慣」にならなければならなかったのだ。
 消費者が「新たな習慣」に入っていくには、その商品を使う習慣とともに、その商品がもたらす「物語」が見えてこなければならなかった。結局は、ここである。
 物語が見えるにはシーンとキャラクターとナレーターを提示する必要があった。そこでイーストマン・コダックは「クリスマスの朝」というシーンや「北極をめざす探検家」というキャラクターをカメラやフィルムと結び付け、ウォーターマン社は「夏の避暑地から出す手紙」や「卒業式を祝うひととき」を万年筆に結び付けた。P&Gがクリスコを決定的なものにしたのは、「おばあちゃんが焼いてくれたパイケーキ」をそのイメージごと広げることだった。
 その『雑品屋セイゴオ』の雑誌連載時のタイトルは、もともとは『スーパーマーケット・セイゴオ』というものだった。
 そのころ、ぼくはスーパーマーケットのほうがそんじょそこらのアートギャラリーよりうんとおもしろく、電気冷蔵庫の中のサランラップに包まれた食品のほうが、そんじょそこらのアート作品より語りかけてくるものが刺激的だと思っていたからだ。
 そんなふうに『雑品屋セイゴオ』を仕上げているなか、あらためていろいろ気付いたことがあった。
 第1には、21世紀のネット型のコネクテッド・エコノミーには、きっと「意味と市場」の関係についてのもっとディープな議論が必要になっているということである
 第2には、そんな「意味と市場」のあいだで、新たな「欲望」と「商品」が生まれているのかどうかということだ。旧来の欲望商品ばかりがグローバル化され、、楽天され、メルカリされているにすぎないのではないか。
いまや時代は「情報選択時代」に傾いているけれど、みんなでいくら「いいね」ボタンを押したってそこから「商品フェチ」は生まれない。平均化がおこるばかりだ。