松岡正剛の千夜千冊・1704夜
杉本博司
『苔のむすまで』
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思い返すと、雑誌に杉本博司の写真を最初に掲載したのはぼくだった。そのときは「遊」(1979年1008号)に『劇場』(The Hall)を16ページ一挙掲載しただけで、文章を頼まなかった。
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そのとき杉本は「ぼくは結界を撮りたい」と言ったのである。
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杉本のコンセプトの特色は、第一に「秘するもの」に依っている。あからさまではなく、探査的ではないのだ。第二に「類に及ぶもの」を大事にしている。いろいろ「類」があるが、ずばりは人類史か写像史だ。第三に「日本とは何か」に響く。ここには神や仏や傀儡(くぐつ)がいる。(1310夜)
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では杉本の写真は何を試みたのかというと、定点によって定点では見えない「もの・かたり」を現出した。
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結界には定義はないが、何かが囲われることによって、そこに「おとづれ」が生じるところのことを言う。古代中世の結界には依代(よりしろ)や物実(ものざね)のようなエージェントがあったけれど、利休の「かこい」も結界なのである。
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もう少し広げていえば、ロジェ・カイヨワ(899夜)の言う「ル・サクレ」(神聖な畏敬力=動物から人までが抱く侵しがたいこと)であって、またミルチャ・エリアーデ(1002夜)の言う「エピファニー」(自律する顕現性=見えなかったことが現れること)がおこるところというものだろう。何某かが来て、何事かが生じる。それなのにあらためて確認しようとすると、もう何かが了っている。そういうところ、あるいはそういう仕掛け、それが結界だ。
ぼくはそのような結界には、おそらく世阿弥(118夜)が重視した「却来」(きゃくらい)がきっと作用するのだと思っている。却来とは是風が非風を凌駕することをいう。気持ちをこめた結界を表現できれば、そういう却来が作用するはずなのだ。
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