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松岡正剛の千夜千冊・1705夜

松岡正剛の千夜千冊・1705夜
フリードリッヒ・ヘーア
『ヨーロッパ精神史』
 日本にはヘーアのような歴史家であって演出家でもあるような大学人はあまりいないが、在野ならたとえば山崎正和などを想い浮かべてもらえばいいだろう。関西大学や大阪大学で教え、戯曲家で演出家でもあった山崎は前半期の『不機嫌の時代』(講談社学術文庫)や『柔らかい個人主義の誕生』(中公文庫)の頃はいまひとつだったが、。『世界文明史の試み』(中央公論新社)はその前の『装飾とデザイン』(中公文庫)、そのあとの『リズムの哲学ノート』(中央公論新社)とともに、大きく本来を見つめる仕事になっていた。
 H・G・ウェルズやアーノルド・トインビー(705夜)やアナール派がそうしたように、ヨーロッパの歴史書の大著にはしばしばすぐれたダイジェスト・エディションがある。縮約版だ。それでも十分な説得力と分析力を示すエディションになる。残念ながら日本の学者には大著も少ないし、それを圧縮編集する芸当が仮にあったとしても、評価されない傾向がある。そもそも歴史はまるごと縮約なのだから、これではいけない。
 その甲斐あって、キリスト教徒は2世紀から5世紀あたりまで、古代後期の世界観、ヘレニズムの恩恵、祈りの仕方、テーブルマナー、作法と不作法を異教徒たちに広めることになった。信仰の世界化と生活態度の教化を重ねた布教だったのである。のちのちまでキリスト教徒の殉教説話や墳墓様式にデカダンの風俗が出入りしていたのは、この時期の異教徒との共存による。
 だいたいは、ここにおいて西ヨーロッパはやっと「自己の端緒」を知ったのである。それとともに古代の英知の地中海化や街道化が進んだ。マイモニデスがユダヤ思想とアリストテレス(291夜)をカサネ編集してみせたのは、ヨーロッパの知が時間と空間をまたげるということを示していた。
 カタリ派は「清いこと」とは何かをさらに追求した。このカタリ派の思念がのちの清教徒(ピューリタン)の起源になっていく。フランシスコ会は「小さな兄弟たちの集団」(兄弟団)という旗のもと、このあとのヨーロッパのプルードンからシモーヌ・ヴェイユ(258夜)に及ぶ思想を準備した。
 フランシス会はアッシジのフランチェスコの無所有・清貧の姿勢から生まれた修道会で、ボナヴェントラ、ドゥンス・スコトゥス、ウィリアム・オッカム、ロバート・グロステスト、ロジャー・ベーコンなど、多くの傑出した才能を生んだ。映画にもなったエーコ(241夜)の『薔薇の名前』の主人公はフランシスコ会士だった。
 本書はこれらの先駆者(ベーコンからエックハルトに及ぶ)を一人ずつとりあげて手短かに解説しているが、なかでも人間の存在にひそむ「オルド」(秩序)を追究したドゥンス・スコトゥスに、最大の賛辞をおくっている。スコトゥスはルターの先駆者であったばかりでなく、ホッブズ(944夜)、ロック、ルソー(1082夜)、ハイデガー(916夜)、ドゥルーズ(1082夜)の先駆者でもあった。
 ヘーアの言い方を借りれば、そもそもダンテがブラバンティアのシゲルスの後継者で、トマス・アクィナスの弟子であって、かつまたカタリ派的アルビ派の貴族の受容者であり、そのうえユダヤ的予言者であって、エトルスクの司祭だったのである。宰相マキアヴェリがフィレンツェの君主に「相手に誑(たぶら)かされないための方策」を提供したくなったのも、これまでの宗教会議の成果とダンテの資質を継承したいという政治的人文主義からだった。
 1520年、レオ10世はルターが論題を撤回しなければカトリックから破門すると宣告した。カトリックとは「普遍の門」のことだ。ユニヴァーサリズム(普遍主義)のことだ。翌年、ルターは破門され、次の年には皇帝カール五世がウォルムス帝国議会への召喚を促した。ルターはふたたび拒否した。このときルターへの仕打ちに抗議する諸侯があらわれた。この抗議行為が「プロテスタント」(抗議者)の由来になる。
 ルターは破門後に蟄居させられ、そこで新約聖書のドイツ語訳にとりくんだ。これがグーテンベルクの活版印刷力とともに世界読書界を席巻した。ルターは必ずしも宗教改革運動の旗手になったわけではなかったが、その信念はこの活版聖書とともに各地に燎原の火のごとく広まったのである。
 まさに奔馬。あれよ、あれよのうちだった。のみならず改革の嵐から産みおとされたプロテスタンティズムとピューリタニズムの理念と行動は、16世紀末のナントの勅令(1598)と17世紀の三十年戦争(1618~1648)をへて、18世紀の科学合理を高らかに謳う真理至上主義の「理性の世紀」へ、ついでは啓蒙主義のうねりへ、さらには19世紀アメリカのWASPの差別的価値観にまで影響をもたらしたのだ。いまやどこにもプロテスタント教会がある。
 ウルガタ版のラテン語聖書のみを正典と定め(4世紀にヒエロニムスが訳した聖書を「ウルガタ」と言う)、洗礼・堅信・聖餐・告解・叙階・結婚・塗油を7つのサクラメント(秘跡)とし(プロテスタント教会では洗礼と聖餐だけを認める)、ルター派の「信仰」中心に対して、カトリックは「善行」も義認の対象になるとした。聖遺物崇拝、聖人崇拝、聖画像崇拝も積極的に許認した。
 ジャン・カルヴァンはスイスで宗教改革をおこしたように言われているが、フランス人である。パリ大学ではカトリック神学の学徒だったのが、1533年にコンヴァージョン(回心)をしてからは檄文を書くようになり、しばしば筆禍によって亡命する。
 弾圧と追放を受けつつも、カルヴァンに期待を寄せる市民の懇願は熱く、ジュネーヴを神権政治さながらの「神の国」にしていった。かつてないほどのプロテンタントによる神政政治(セオクラシー)の断行だった。
 ルイ11世は後期スコラ学によるオッカム主義(唯名主義=多くの実在は名前によって存在しうる)を禁止したのだが、実はそうとはならず、1450年から100年にわたって精神界をリードしていたのである。「オッカムの剃刀」は鋭かったのだ。
 その後のカルヴァン主義こそは、マックス・ウェーバーを瞠目させたあのプロテスタンティズムだ。ベルーフと勤労と資本主義の前哨を結び付けた。のみならず、ヨーロッパに神の霊的本質を取り戻し、ヨーロッパが「神の国」の自動延長帯域であると確信させ、その精神方式を「完全な西側」のアジェンダにしていったのである。
 カルヴァン主義は最鋭最強の「西側の論理」となった。厳しい選民思想が彫琢され、「勝ちにいく」ための意志が強化され、不屈と勤労が用意できた。
 しかし、カルヴァン主義は資本主義や勤労者や経営者の福音になったばかりではない。西の哲学の代表にもなった。それをやってのけたのは宗教者ではなかった。デカルトである。
 その後は、そこにトマス・アクィナスのスコラ学、ルターのテキスト(=聖書)重視主義、カルヴァンの「神の方法」主義、ジャンセニスムをまぜこぜに統合し、その思考の基盤にもとづいて、ルターの「我信ず、故に我あり」(クレド・エルゴ・スム)とまったく同様の、「我思う、故に我あり」(コギト・エルゴ・スム)を導き出したのだ。
 デカルトにプロテスタンティズムの影響を読みとるのは意外かもしれないが、かの二分法(ダイコトミー)によって精神と物質を分けたデカルト哲学は、物的生産力に携わる精神者にとってこその福音なのである。
 その戦乱の騒音が鎮まりつつあった頃、プロテスタントの多いライプチッヒに比類のない天才が生まれた。ゴットフリート・ウィルヘルム・ライプニッツだ。( 994夜
 のちにディドロ(180夜)は『百科全書』に、ライプニッツはたった一人でプラトンとアリストテレスとアルキメデスの3人がもたらした名声に匹敵するものをドイツにもたらしたと書いたが、これはまだ過小評価というものだ。
 ガリレオの望遠鏡とフックの顕微鏡はとっくに発明されていたが、しかし新しい「世界」を説明するためには、望遠するマクロコスモスと顕微するミクロコスモスをつなぐ「人間の知の領域」が拡張されなければならないと、ライプニッツには思われた。それにはマクロとミクロの現象を同時にあらわす、ないしはこれらを結合(コンビネート)するマニエリスティックな「バロックの知」が必要だった。
 1781年に敬虔主義の風土のケーニヒスベルクで思索していたカントが『純粋理性批判』を著し、1791年にモーツァルトが死に、ゲーテ(970夜)は宗教詩と『ファウスト』草稿にとりくんで、世界をどう開示すればいいかを構想していた。1799年にゲッティンゲン大学の実験自然学者ゲオルグ・リヒテンベルクが亡くなった。その『雑記帳』(作品社)は、ショーペンハウアー(1164夜)、ニーチェ、フロイト(895夜)、ヴィトゲンシュタイン(833夜)、ベンヤミン(908夜)らのドイツ精神文化の担い手たちに多大の影響を与えた。
 そして1788年、フィヒテ(390夜)の『人間の運命』(全集・哲書房)が刊行されたのである。
 ハイネ(268夜)がこういうふうに言った。ロベスピエールはたかだか国王の首を飛ばしたにすぎないけれど、カントは神の首を切り落としてしまったのではないか、と。マルクス(789夜)の友人だったハイネらしい言いっぷりだが、カントが褒められているのか貶されているのか、わからない。
 イマヌエル・カントの処女作は『活力測定考』である。力の概念をめぐるデカルトとライプニッツの解釈のちがいに調停を買ってでた野心作だ。