松岡正剛の千夜千冊・1706夜
荻生徂徠
『政談』
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宝井其角(1573夜)に「梅が香や隣は荻生惣右衛門」という句がある。荻生惣右衛門は荻生徂徠のこと、日本橋茅場町で蘐園塾(けんえんじゅく)を開いたとき、其角が隣りの家にいたことに因んで詠んだ。其角らしい句だ。こういうあっけらかんとした句は楽ちんそうだが、洒脱な俳諧的達観がなければなかなか詠めない。
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「蘐」とは茅(かや)のことである。この塾名から、のちの徂徠派の系累のことを蘐園派というようになった。「草ぼうぼう派」でいきますよという表明だ。たんに「草ぼうぼう」だったのではない。山鹿素行の古学(聖学)、仁斎の「古義学」に対して、蘐園派は「古文辞学」という流れを拓いた。そして安藤東野、山県周南、太宰春台、服部南郭らを輩出した。
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資質のせいか、生い立ちのせいか、もともと徂徠は政治に関心をもっていた。同時代のジョン・ロックのようなヨーロッパ的政治論のようなものではない。徳川幕府(=日本)がめざすべきリアル・ポリティクスとしての実務政治に関心をもった。当時の言葉で「時務策」という。
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当時の幕府は安定していなかった。宝永6年(1709)、綱吉が亡くなると政界が一変して将軍は家宣になり、将軍をめぐるブレーンも一変する。幕臣として新井白石(162夜)が登用された。
吉保は隠居を願い出て、駒込で六義園の造営などに勤しんだ。そのタイミングで徂徠も茅場町に出て、蘐園塾を始めたのだ。その後、吉宗の時代になると、徂徠はコミットメントを求められることになり、それまでの観察と施策にもとづく見解を披露した。
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明治以来、白石についての評価はほぼ通り相場になっていた。羽仁五郎や桑原武夫(272夜)がそのラディカルな合理主義と啓蒙主義に匹敵する知識力を評価したせいもある。ごくごくかんたんにいえば、近現代の日本政治史論は白石をダイレクトに福沢諭吉(412夜)につなげたのだ。乱暴にも、途中をとばしたのだ。
これに対して丸山真男(564夜)は、仁斎・白石と徂徠以降を分けた。
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ぼくは徂徠の御政談の「なるべし」を好ましいと見てきた。そのぶん今日の政治家や官僚や思想家たちが「なるべし」をハンドリングできなくなったことをヤバイ状況だと思っている。「梅が香や隣は荻生惣右衛門」という風のように闊達する判断を感じるなるべし、学ぶべし、なのである。
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