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松岡正剛の千夜千冊・1711夜

松岡正剛の千夜千冊・1711夜
林語堂
『蘇東坡(上・下)』
数年前、蘇軾(そしょく)の『寒食帖』(かんじきじょう)をゆっくり見る機会を得た。2014年に東博が企画した台湾故宮展の会場でのことだ。
 縦33センチの澄心堂紙。闊達な行書で17行2首を書いた横長の書幅。よく見ると写真版や印刷物ではわからない墨の濃淡がある。一気呵成なのではない。心が揺れている。いや内側では撥ねている。
 寒食(かんしょく・かんじき)とは何かというと、冬至から105日目の清明節の前日に火を用いない一日をおくり、前もってつくっておいた食事をする風習のことをいう。
 その習俗が唐代になって定着した。宋代になると、どこでも寒食節をやっていた。日本なら「七草粥」や「柏餅」で済ます潔斎の一日にあたる。今の暦なら4月4日前後になる。
 なにしろ高級役人であって、県知事だった。それなのに予定していた前途はことごとく挫折させられた。だから人生の半分は地方役人でもあった。それでも失意と愉快の両方をぞんぶんに享受した。士太夫としてもかなりの異例に満ちている。こんな役人、めったにいない。
 めったにいなけれど、蘇軾をそうさせたのは宋代という時代のせいもあった。
 ところで蘇東坡については、長らく日本の詩人や書家たちも注目してきた。とくに五山の禅僧が格別視した。
 なかでも25巻におよぷ『四河入海』(しがにっかい)がめざましい。大岳周崇、万里集九、瑞渓周鳳、一韓智翃が試みたそれぞれの東坡注釈をまとめて笑雲清三が編集したもので、天文年間に上梓した。
 なぜ五山僧が蘇東坡を愛したのか、その気持ち、よくわかる。鎌倉北条時代、南北朝時代、室町時代は為政者がなかなか定まらず、夢窓疎石(187夜)が七朝帝師として国のトップ7代を支えても、世は行方定まらなかったのである。国に仕える者も、仏に仕える者も、何かが定まらない。けれども蘇東坡の詩を見ているとそんな繰り言も言えなくなってくる。毀誉褒貶に惑うことなく、ひたすら禅定に向かいたい。そう思ったのであろう。禅僧ではないのに、蘇東坡の生き方や考え方を敬いたいと思ったのだ。
 そのことをよくよく感じていたのは、おそらく浦上玉堂と富岡鉄斎(1607夜)だったのではないかと思う。





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蘇東坡 => 蘇軾 Wikipedia> https://ja.m.wikipedia.org/wiki/蘇軾