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松岡正剛の千夜千冊・1717夜

松岡正剛の千夜千冊・1717夜
ジェイ・デイヴィッド・ボルター
『ライティング・スペース
電子テキスト時代のエクリチュール』
-産業図書-1994-
 書いたり読んだりすることも編集であるが、技法としての編集力は、書き手のメッセージやコンテンツの内容だけを相手にするものではなく、そこにメソッドとメディアをくっつける。編集にはメッセージ(Message)とメソッド(Method)とメディア(Media)という3つのMが一緒に動くのだ。編集力はこの3Mによってむくむくと顕在化する。それをみごとに体現しているのが本なのである。
 1971年夏、「遊」は「読み/書き/語り」にひそむ相互的な互換性を「関係の束」として感じながら行き来してもらうにはどうしたらいいのか、どんな表象空間(=メディア=インターフェース)を用意すればいいのかという模索から生まれた雑誌だった。「オブジェ・マガジン遊」と銘打ったのはさまざまなオブジェクトを動かしたいという意図があったからで、あとから想うとスモールトークによるオブジェクト指向をやや先取りしていたようなところがあった。
 編集制作をしているうちに気が付いた。もともとテキストや画像データは、どれ一つとして孤立してなんかいないということだ。それぞれが「互いにつながりあおう」としているのではないか、編集とはその「つながり」を掬いとる作業ではないかと思えた。アルス・コンビナトリアである。
 何によってつながっているのか、まだそれが「情報の編集の仕方」によるつながりだとは言えなかったのだが(そのころは「意味」のつながりだと思っていた)、それでも、そのつながりをエラボレート(入念に仕上げる)するつど、ぼくが考えている「編集性」は、すぐれて非線形的で重畳的で、多分にアナロジカルなものだろうという確信をもった。
 デイヴィッド・マーの伝説的な論考『ビジョン』、シャンジュー&コンヌがニューロンの正体に迫った『考える物質』、マーヴィン・ミンコフスキー(452夜)がフレーム=エージェント理論を解きあかした『心の社会』、ハワード・ガードナーが人工知能研究探索をめぐった『認知革命』、ジョンソン=レアードが認知の枠組を整理した『メンタルモデル』、リチャード・ローティ(1350夜)のコア・コンピタンスにあたる『哲学と自然の鏡』、日本の脳計算研究をリードした川人光男の『脳の計算理論』、ペシス・パステルナークが二分思考批判をやってのけた『デカルトなんかいらない?』、下條信輔の実験心理学レポート『視覚の冒険』、アナロジーの力に注目したバーバラ・スタフォード(1235夜)の鮮やかな『アートフル・サイエンス』、そしてデイヴィッド・ボルターの『ライティング・スペース』などだ。
 片っ端から読んだ。いずれも興味深く、すばらしいエクササイズやトレーニングになった。いまでもぼくの編集工学はこれらの本に鍛えられ、しだいに構想がふくらみ、その構想を「関係の束」や「表象のメディア」にすればいいかという展望をもたらしてくれたと思っている。
 今夜とりあげたのはその一冊、ボルターの『ライティング・スペース』である。
 ハーバード大学で社会学を修めたテッド・ネルソンが、60年代半ばに「ザナドゥ」(Xanadu)という仮想システムで提起したのは、以上のことをハイパーテキスト空間として実現できるようにしようというものだった。

テッド・ネルソン(1937-)
ハイパーテキストの生みの親。現在の「インターネット」として利用されるWorld Wide Web(ウェブ)の構想は、テッド・ネルソンの「ザナドゥ計画」がベースになっている。