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松岡正剛の千夜千冊・1724夜

松岡正剛の千夜千冊・1724夜
岡田尊司
『うつと気分障害』
 誰がいつ、どのように死ぬかはわからない。ヘミングウェイ(1166夜)はアイダホの自宅で猟銃を頭に打ち抜いて自殺した。1961年、61歳だった。
 かくして、昔の時代の病名は確定できていないことも多いだろうが、たとえばスウィフト(324夜)、ゲーテ(970夜)、サド(1134夜)、トルストイ(580夜)、ポー(972夜)、ラブクラフト、ヴァージニア・ウルフ(1710夜)、マックス・ウェーバー、ジャック・ケルアック、シルヴィア・プラス、フィリップ・K・ディック(883夜)などが、なんらかの精神障害や気分障害に苛まれていたことが、表沙汰になった。
 日本の作家のことにもいろいろ調べがついている。『歯車』に壮烈なイメージを綴ってみせた芥川(931夜)をはじめ、有島武郎(650夜)や新渡戸稲造(605夜)のうつ病、北杜夫(1721夜)や開高健(280夜)の躁うつ病などが知られている。
 うつ病者には病名に由来するまさに「憂鬱」が襲うのだが、名状しがたい「悲しみ」がともなうことも多い。
 フロイト(895夜)はそれを『悲哀とメランコリー』で「何を喪失したのかがわからない悲しみ」と説明し、クルト・シュナイダーはドイツ語で「生気的悲哀」(vitale Trauigkeit)と名付けた。シュナイダーはそこには「思考流出」「思考が打ち消される」「妄想的知覚」がおこっていると考えた。そうだとすると、これはかなりやりきれない悲しみだ。
 フォーク・クルセーダーズの「悲しくてやりきれない」はサトウハチローの詞に加藤和彦が曲をつけたものだった。「悲しくて/とてもやりきれない/このやるせないモヤモヤを/だれかに告げようか」とある。さっき久々に聴いてみたが、二番の「悲しくて悲しくて/とてもやりきれない/この限りないむなしさの/救いはないだろうか」の唄いっぷりが、なんともやるせなかった。
 ひとつは、空想と解離の関係のことである。空想(fantasy)は幼児から大人まで、ずうっと付きまとう想像力の自由のようなもので、また創造力の源泉のようなものである。空想がなければ、趣味も仕事もままならない。
 解離(disssociation)は読書や映画に夢中になっているときの心境をいう。かんたんにいえば、空想に耽っていられることである。ところが、その空想からのリリースがうまくできないとき、解離障害がおこる。心の障害になる。空想と解離の2つはあるところで角を突き合わせてしまうのだ。
 ではいったい、どこからファンタジーが「症状」と呼ばれるようになったのか。そこがたいへん難しい。これからは空想と解離を分けないという思想も必要になっているのではないかと、つくづく感じる。