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松岡正剛の千夜千冊・885夜

松岡正剛の千夜千冊・885夜
徳富蘇峰
『維新への胎動』
 原稿用紙にして24万枚。それを蘇峰は晩年にさしかかった56歳のときの大正7年に起稿し、そこからえんえん35年をかけて昭和27年に完成させた。
 しかも蘇峰は終生にわたって“記者”(記す者という本来の意味での記者)であることを誇っていた (388夜) のだから、歴史の舞台の現場から退くということがない。そこは幕末の舞台を動かし終わるとさっさと赤坂氷川に引っこんだ勝海舟 (338夜) や、悠々自適の晩年を送って別荘を造営しまくった山県有朋とはちがっている(その一つが椿山荘や無隣庵)。
 明治20年代という時期は、新しい言論運動が蘇峰の民友社発行の『国民新聞』と、三宅雪嶺・志賀重昂・陸羯南らの政教社による『日本人』とに代表されていた時期 (489夜) である。
そこへ蘇峰を「変節漢」と詰(なじ)る風潮が巻き上がる。明治30年(1897)、34歳の蘇峰が松方内閣の内務勅任参事官になったことへの批判がきっかけである。堺利彦は「蘇峰君は策士となったのか、力の福音に屈したのか」と疑問を呈し、田岡嶺雲は「説を変ずるはよし、節を変ずる勿れ」と痛罵を吐いた。
 これが近代日本思想史に有名な「蘇峰の変節」である