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松岡正剛の千夜千冊・960夜

松岡正剛の千夜千冊・960夜
大岡昇平
『野火』
 ぼくはしばし考えて、それなら大岡昇平か埴谷雄高だろうと言った。スーザンが難問に立ち向かうことが好きなラディカル・ウィルの持ち主だということを前提にしたリコメンデーションだった(第695夜参照)。
 野上弥生子 ( 934夜 ) ・武田泰淳 ( 71夜 ) に続く人肉嗜食の問題を文芸が扱った重大もさることながら、その人肉嗜食を思いとどまったことにヒューマニズムを見るのではなく、人肉に食らいつけなかった田村の思想と限界を、本人の大岡自身が最後の1行にいたるまで執拗に問うているのが、こたえた。ギャーッだった。
 『野火』から戦争とは何かとか、戦争の悲惨というような問題を抜き出すのは、くだらない。
 仮に、そのような文学的期待や社会的問題の提起が多少は可能だとしても、大岡が『野火』の限界を突破するために書いた『レイテ戦記』によって、われわれはその期待と問題意識をぶちこわされる。
 けれども、『レイテ戦記』では、このような一つずつの解釈不可能な事実が、大量に、かつ同時に、そして究極の姿をもって出現する。大岡はそれをだけを、昭和42年(1967)という成長と飽食に酔う時代のなかで、ひたすら書き切りたかったようだった。
 これは、文学作品なのだろうか。時代の証言なのだろうか。おそらくそのいずれでもない彫琢なのだ。言葉が戦争を覆いきれるかという切羽詰まった闘いなのであ