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松岡正剛の千夜千冊・995夜

松岡正剛の千夜千冊・995夜
アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド
『過程と実在』
 ネクサス(nexus)というのは結合体や系列体のことをいう。ヘンリー・ミラーが英語で同名の小説を書いた。パッセージ(passage)とは推移や通過のことである。ウォルター・ベンヤミンはフランス語で同名(=パッサージュ)の記録を書いた。ぼくもそのことを第649夜第908夜に書いておいた。
 道元(988夜)の宇宙とかカントの宇宙とかホーキング(192夜)の宇宙という言い方があるように、ホワイトヘッドの宇宙があると見たほうが、いい。その宇宙はコスモロジカル・コスモスで、すぐれて連結的(connected)で、多元的である。
 コスモロジーだから、そこには宇宙や世界の要素になる要素の候補が出てくる。ホワイトヘッドのばあいは、これを「アクチュアル・エンティティ」(actual entities=現実的実質・現実的存在)と名付けている。
 哲学というものは、一言でいえば計画である。アリストテレス哲学(291夜)もレーニン哲学(104夜)も、計画を練り、計画を実行に移そうとした。
 そのうちの数理科学を背景にした哲学の計画には、ラッセルやカルナップのような論理的な計画もあれば、ライヘンバッハやトマス・クーンのような、思索の歴史を再構成するような計画もある。多くの哲学書とは、その計画を手帳のスケジュールに書きこむかわりに、使い古された哲学用語で繰り返しの多い言明を、少しずつずらしながら連ねていくことをいう。
 ホワイトヘッドの計画は、最初は記号論理の用語とインクで書かれた計画だったが(それがラッセルとの共著の『プリンキピア・マテマティカ』にあたる)、その後はホワイトヘッドが想定したすぐれて有機的(organic)なコスモスに包まれた計画にした。
 人間がそのコスモスに包まれてプロセス経験するだろうことを、ホワイトヘッド独自の用語とオーガニックなインクをつかって書いた計画書である。
 その計画書はいくつもあったけれど、それらをマスタープランに仕立てたのが『過程と実在』なのである。
 ホワイトヘッドは「ある」(being)と「なる」(becoming)のあいだを歩きつづけた哲人だった。「ある」(有)と「ない」(無)ではなくて、「ある」と「なる」。つねに「ある」から「なる」のほうに歩みつづけた。
 有機体哲学は、宇宙や世界の出来事(event)がオーガニック・プロセスの糸で織られているということ、あるいはそのようにオーガニック・プロセスによって世界を見たほうがいいだろうということを、告げている。オーガニック・プロセスそのものが宇宙や世界の構造のふるまいにあたっているということである。
 このことは、『過程と実在』の原題である “Process and Reality” にもよく表象されている。
 たとえば、『過程と実在』を貫く概念のひとつに “concrescence” という言葉があるのだが、これには「合生」という翻訳があてられている。いい翻訳だとはおもうけれど、ホワイトヘッドが合生を語るにあたっては、しばしば「具体化」(concretion)をともなわせて、つかう。合生と具体化は日本語の綴りでは似ていないが、英語では“concrescence” と “concretion” は共鳴しあっている。
 こういうことがピンとくるには、少しは英語の綴りが見えていたほうがいいだろう。
 とくに重要だとおもわれるのは、「抱握」(prehension)である。抱握はすこぶるホワイトヘッドらしい用語で、哲学史上ではデカルトの「思惟」やロックの「観念」を普遍化し中立化するために提案された。ホワイトヘッドとしてはライプニッツのモナド(単子)による世界把握のイメージを、当初はこめたかったようだ。
 そこで、余計なことだとはおもうけれど、ぼくが上記の9項目をいいかえておくことにした。こういうものだ。
① 考えるべきだ。「そりゃ、考えすぎだよ」という友人や知人の非難を撥ねのけること。
② 言葉を使い尽くしたほうがいい。そうしたら囚われていた主題から解放される。
③ 能力はスキルアップの鍛練からしか生まれない。心の問題はカンケーない。
④ 「私は」という主語をはずして、述語に入ってしまうほうがいい。
⑤ 感覚や知覚は、モノに託してみるべきだ。買い物で得たモノ以外で、大切にできるモノをつくりなさい。
⑥ 想像しているだけのことが多すぎるので、そんなにも困惑しているのである。
⑦ 何かについて純粋であると思うことは、そのことを純粋から遠のかせるばかりになる。
⑧ 「逆説的に言うとねえ」という言い方をやめなさい。そういうときは何も主張がないだけなのだから。
⑨ 理屈っぽくなったときは、その理屈を途中からではなく、最初から捨てること。