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松岡正剛の千夜千冊・1021夜

松岡正剛の千夜千冊・1021夜
中村元
『インド古代史』
 そうした信仰をかたちづくっていた原住民はムンダ人やドラヴィダ人である。母系制の社会だった。父よりも母を重んじた (1026夜)。古代プーナの陶工たちのあいだでは最も大きな水瓶は女が作ったことがわかっている。このことは古代インド史を見るにあたって重要な視点を提供するもので、のちの古ウパニシャッドやジャイナ教や『マヌの法典』にも、この母系制が残響した。
「お釈迦さんはえらい人やった」ではわからない。せめてゴータマ・ブッダが歴(れっき)とした実在の人物で、キリストよりだいたい500年以上も前のカピラ国の王城の王子であって、そこから青年時代に脱出して激越な森林修行したことくらいは、子供のころに植えつけてほしかった。京都は教会の一千倍もお寺さんがあったのである。僧侶は宣教師ではないものの、もっとブッダのことを知らせる情熱が滾(たぎ)るべきである。
 しかし正直なことをいうと、中村さんや鎌田さんの著作だけでは仏教もヒンドゥイズムも、またインド哲学の全般も鎌倉仏教も槍衾(やりぶすま)のように突き刺さってはこない。中村さんや鎌田さんから教わったのは、アジア宗教に接する呼吸と覚悟のようなものだったのだ。

 古代インドの思想史や哲学史や宗教史には、汲めども尽きないものがある。根本には「縁起」が「空」 ( 846夜 ) がある。こんな思想は古代ギリシアにも中世神秘思想にもまったく見当たらない。
 インドにはヴェーダ以来の須弥山宇宙観があるのだが、このような世界構造論はキリスト教には見当たらない。拮抗しうるのはわずかにダンテの『神曲』であろう ( 913夜 ) けれど、天国も地獄も異なっている。円形や円球の西に対し、インドは方形でも円でも球でもあって、なお対数的であり級数的な宇宙なのである。
 いつぞやら、中村元さんがこんな話をしてくれたことがあった。「松岡さん、サンスクリット語をやらないとインドはわかりませんよ。だって『流れる』という動詞がないんですからね。静止・動向・流路・介入・流出それぞれを自分でつなげるんです。それだけでもヘラクレイトスとはちがうんです」。