松岡正剛の千夜千冊・1196夜
松浦玲
『横井小楠』
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樸実で、酒乱。大器にして、不遇。
それでも舌鋒鋭く、どんな相手をも呑んだ。
いや、単身で日本を設計した。
横井小楠は、勝海舟をして、
西郷隆盛と並んで恐ろしいと言わしめた男だった。
日本を洗濯することを志向した男だった。
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一国の独立によって「国是」(ナショナル・インタレスト)を確定することを前提に、それには(3)風俗を正し、(4)不肖を退け、(5)言語を開いて、(6)学校を興し、(7)士民を仁(いつくし)むべきだというのだ。あとでのべるように、明治2年に暗殺されるまで、小楠は生涯をつねに「国家の設計」に立ち向かった幕末維新の最もラディカルなプランナーでありつづけたわけだけれど、その前提にはつねに「人知を養う」こと、および「新民を救う」こととがぶれない目標になっていた。そのためには有徳こそが国富の土台になると主張した。
ついでに言っておくと、小楠はこれより前に、越前藩(福井)のために『国是三論』も書いた。「天・富国」「地・強兵」「人・士道」の三論に構成された堂々たる問答集で、ここでも日本の富国強兵にはどうしても“士道”が伴うべきだと強調した。“士道”というのは文武両道を心得ることであるが、小楠は文武両道を文と武に分けてはいけない、一緒に体得して文武一体として、これを実践しなければ政事はままならないとした。まさに富国有徳の弁である。もって日本の政治家たちがいまこそ銘ずるべきことだ。
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一言でいえば、蕃山からは古代中国の堯・舜の理想政治を学び(796夜)、正志斎からは後期水戸学の精髄のあらかたと尊王攘夷思想を学んだ(997夜)。この学習は小楠の政治思想を大きく育み、やがて藤田東湖と交わるようになって、さらに深遠にも、急先鋒にも向かうのだが、…
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夥しい人士に出会っている。その輪は吉田松陰のヒューマン・ネットワークに匹敵する(553夜参照)。たとえば久留米の真木和泉、たとえば萩の村田清風、岩国の玉乃世履、福井の橋本左内、由利公正、村田氏寿、金沢の上田作之丞、たとえば京都の梁川星巌(やながわせいがん)、梅田雲浜、岡田準介、たとえば尾張の田宮如雲などだ。いずれも幕末を賑わせた傑物である。
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これらを通して、小楠が日本の政治家や地方リーダーにとくに戒めたのは「驕惰侮慢」(きょうだぶまん)だった。日本のリーダー層が安逸に驕り、惰眠を貪り、諸外国を侮って慢心することを極端に攻撃したのである。とくに外交と交易においては「仁」をもって当たり、「共和」を訴えることが重要だと口をきわめて強調する。小楠の一視同仁の躍如である。
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3度目はぶらりと訪れた。このあたり、龍馬はさすがだ。そのときの会談の模様を徳富蘆花が『青山白雲』にスケッチしている。天下の人士の人品と器量を二人であれこれ評定したのち、龍馬が小楠に「先生は酒を召し上がって、大久保どもがする芝居を見物なさってください。大久保どもが行き詰まったりしますれば、そりゃあちょいと指図をしてやってください」と言ったというのだ。すでに60歳近い小楠に決起の行動を期待したのではなく、革命はわれわれがやるから頭上から見ていてほしいと言ったのである。
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維新の改革シナリオの大半を描いたことは、すでに述べた通りだ。日本の議会政治の母型を提供したのは小楠だった。が、それだけではなかった。衣鉢を継ぐ者が次々にあらわれた。
ひとつには、熊本の地域改革に乗り出した者たちの大半が小楠の門下生たちだった。実学党のコアメンバーたち、徳富一敬、竹崎律次郎、小楠の甥の横井大平、小楠の長男の横井時雄、金森通倫、矢島直方、川瀬典次、長野濬平、嘉悦氏房たちである。かれらがいなければ熊本県政は革新できなかった。そこには今日につながる二院制の提言もあった。
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横井時雄は明治13年には「共立学舎」もおこし、その長男の蘇峰が「大江義塾」を開設したことは、付言するまでもないだろう。885夜の『維新への胎動』を参照してほしい。
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