松岡正剛の千夜千冊・1273夜
クルト・コフカ
『ゲシュタルト心理学の原理』
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いまは認知科学として大きく一括りされている“知覚の心理学”についての研究成果を、ぼくはたしか20代そこそこでグレゴリーの『インテリジェント・アイ』(みすず書房)を手にしたときから、舞い散る小雪を遊びながら追いかける犬のように、ちらちら追ってきた。
その後はフロイト(895夜)やユング(830夜)に関心が傾いたときもあれば、ジョージ・バークリーの『視覚原論』やメルロ=ポンティ(123夜)やユージェヌ・ミンコフスキーの『生きられる時間』のほうにピンときたときもあるし、天才デヴィッド・マーの論文に執心したときもあり、またサイモン(854夜)からミンスキー(452夜)におよんだ人工知能論を堪能したときもあった。
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ここで「面影」とは、ゲーテ(970夜)やロマン主義が重視していたあの面影や様相のことで、さらに正確にいうのなら絵画や音楽や舞踊として表現されてきたもののなかに感じられる「面影と様相を動かす心理」というものだ。
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ゲシュタルト(Gestalt)とは「形づくられたもの」とか「形態」とか「形態素」といった意味のドイツ語で、もともとはエーレンフェルスらのグラーツ学派が「ゲシュタルト質」(形態質)という言い方をしたのに端を発した。
当初は音楽における「メロディ」のようなものがゲシュタルトだと考えられた。メロディは音の一つ一つによって成り立ってはいるが、要素を分解したのでは取り出せない。全体に醸し出しされているのがメロディだ。だからメロディは、移調や転調をしても保存されている。そういうものがゲシュタルトだとみなされたのだ。まさに「面影」や「様相」である。モダリティである。ただ、エーレンフェルスらは、このようなものは「きっと要素に何かが加わっているからだろう」と解釈した。
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もうひとつは、今夜はふれないが、いわゆる「共感覚」(シネスシージア)ともいわれる複合知覚がもたらすモダリティで、その一部については「千夜千冊」ではシトーウィックの本を紹介して説明しておいた(541夜)。視覚と聴覚、聴覚と触覚とがまざっている感覚だ。しかし複合知覚はシネスシージアだけでは解けない。
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ゲシュタルト知覚には、いくつかの仮説的な法則がある。わかりやすい順に並べると、ひとつは「近接の法則」(law of proximity)だ。プロクシミティとよばれる。適当にビー玉をばらまくと、そこには必ず疎密があらわれるけれど、知覚はそこに必ず特別の“かたまりぐあい”を発見する。それが面影と様相としてのプロクシミティである。
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すでに察知しただろうように、ゲシュタルト心理学は視覚システムの解明に長けていたのだが、その長所のひとつに、「知覚は何かを囲みたがっている」という見方をしたことがあげられる。これをゲシュタルト知覚としての「囲みの要因」(facter of surrondness)という。境界をつくる知覚傾向というものだ。
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これを運動知覚のほうからみると、ここには「誘導知覚運動」(induced motion)がおこっているということになり、そもそもこのようなことがなぜおこるかという視点からみれば、人間の運動知覚はもともと「体制化」という傾向をもっていて、知覚者がどこかの新たな環境に入っても、しばらく自分が体験してきた「体制」のうちの最も親しんできた体制を選択するという傾向をもつということになる。
これをゲシュタルト心理学では「プレグナンツの原理」(priciple of pregnanz)と言ってきた。体制選好度のようなものだ。
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