松岡正剛の千夜千冊・1412夜
赤坂憲雄
『東北学/忘れられた東北』
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大震災復興構想会議のメンバーとなった赤坂憲雄は、
どんな思いで「襲われた東北」を見ているのだろうか。
まずはその「東北学」を日本人の多くが知るべきだ。
そして、日本中央が東北にもたらした負の歴史を
あらためて振り返るべきである。
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むろんたんなる旅人の眼ではない。そこには、「日本」および「日本人」をまとめて記述しようとしてきた柳田国男(1144夜)このかたの「一つの国家観」に対する反発がある。既存の民俗学の見方に対する注文がある。その注文は静かではあるが、激越だ。
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赤坂が最初に東北に入ったのは、北上山地山麓の九戸(くのへ)群の木藤古(きとうご)という村だった。わずか9戸の集落だったというが、ヒエやアワをつくり、炭焼きで暮らしを立てていた。雑穀の民だ。
このような雑穀の村が東北から消えていったのは、昔のことではない。ごくごく最近のこと、1960年代の高度経済成長期のあとからのことだ。東北は原発開発計画が俎上にのぼったころから、かつての東北を失っていったのだ。もしも東北を復旧するというなら、ほんとうはそこまでさかのぼることが復旧なのだろう。
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とりわけ赤坂の心を打ったのは「箕つくり」の民の実態だった。尾花沢近くの次年子(じねご)という村の実態だ。
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そこに登場してきたのが勇猛なアテルイとその一党である。アテルイは胆沢(いざわ=現在の水沢市・胆沢郡・江刺郡)の豪族だったようで、延暦12年(793)には中央から派遣されてきた大伴弟麻呂の一軍と戦ってこれを破り、平安遷都の渦中の朝廷を大いに動揺させた。
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