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松岡正剛の千夜千冊・1420夜

松岡正剛の千夜千冊・1420夜 小島毅 『義経の東アジア』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1420.html 〜 本書はもともと勉誠出版で同名の書籍として刊行された。義経についてのアジア的捉えなおしの展開はほぼこちらに書いてあったのだが、このたびはこれに「日本を東アジアから見るためのリベラルアーツ」ともいうべき見方についての補助章がいくつか加えられ、いっそう背景の被写界深度のレンズ効果が増した。 〜  かくて南宋は生き延びた。では、このことを日本から見るとどうなるかというと、清盛は金と日金貿易をしないですみ、日宋貿易に集中できたということになる。  前夜( 1419夜 )にも書いたように、清盛の日宋貿易で日本には宋銭が大量に流入して「銭の病」がおこった。相手国の通貨が一方的に流入してきた ( 1352夜 ) ということは貿易黒字が出たということだ。 〜  奥州藤原氏のほうはどうしたかというと、実は一方で清盛経由で宋を相手にしたとはいえ、実際には他方で北方の遼や金を相手にしていた。清衡・基衡・秀衡とは北方交易の王者なのである。これは何を意味するかといえば、奥州藤原氏は京の朝廷や福原の清盛政権に頼らずとも、独自の北方交易で奥州政権をそれなりに維持できたということだ。だからいまさら清盛の方針に従う必要はない。  ここに、もうひとつの“東アジアの義経”の意味が隠れている。清盛政権から源氏の政権に時代が移るとき、源氏の棟梁頼朝にとってはこのままでは具合が悪かったのだ。まして義経が奥州にいるということは、新たに政権を動かそうとしていた頼朝にとっては、もっとまずい。 〜  本書の著者の小島毅は、平家と源氏の対立をはなはだ斬新な視点でとらえている。それは「開国か、鎖国か」 ( 581夜 ) という視点だ。平家は開国を狙い、源氏は結局は鎖国的だったというのだ。  そもそも清盛と頼朝は「武の家」どうしの闘いであったとともに、大きくは東日本(東国)と西日本(西国) ( 706夜 ) の覇権争いでもあった。 〜 頼朝が義経を無慈悲に屠ったのは、“奥州義経”が清衡以来の開国性に富んでいたからだったのだ。  実は、その後に3代実朝が鎌倉八幡宮の大銀杏の下で殺されたのも、そういう事情...

松岡正剛の千夜千冊・1419夜

松岡正剛の千夜千冊・1419夜 入間田宣夫編 『平泉・衣川と京・福原』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1419.html 〜  衣川は北上川の支流である。現在の地理標識では、岩手県西磐井群平泉町と奥州市衣川区の境界を流れる。北上川が奥州をタテにつなぐ“母なる川”だということについては、前夜( 1418夜 )にもふれた。 〜  いま、衣川村には城郭ふうの郷土史料館「懐徳館」が設えられている。そのフロントガーデンには、ここを西行( 753夜 )が文治2年(1186)の初冬に訪れたときの歌を刻んだ2基の歌碑が、東西に分かれて立っている。…  このとき西行は69歳で、平泉に来る途中に頼朝とも会っていたといわれるから、もしもそうならばすでに頼朝の奥州攻撃のプランを察知していたのであろう。「とりわきて心も凍みて冴えぞわたる衣川」という深い言いまわしには、そういう西行が察知した藤原4代に寄せる万感の無常と人情が詠われている。 〜  こうして3代秀衡の時代に、衣川には平泉館(柳の御所)を中心に、秀衡の常の御所(加羅の御所)、その秀衡の子弟の館などがずらりと並び立っていく。ちなみにこの地では「館」は「たち」と読む。「たち」としての館は「庁」(たち)でもあった。平泉館(柳の御所)は平泉政庁なのである。 〜  これは後白河による「天下三分の計」とでもいうべきもので、もしそのままいけば三国志の魏・呉・蜀のような日本が、西国・東国・東北にできていたかもしれなかった。 〜  さて、本書のタイトルの『平泉・衣川と京・福原』は、本書の冒頭におかれた高橋昌明の論考「西の福原と北の衣川・平泉」を反映している。最後にそのスコープを紹介しておく。義経が平泉と関係した背景を考えるうえでも、新たなヒントになろう。今度は清盛の話だ。  平清盛が西国に勢力をはるようになったのは、久安2年(1146)に安芸守となって、軍神である厳島神を氏神と奉じてからのことだった。厳島神社への参詣は10度以上にわたり、華麗きわまりない写経本も奉納した。いわゆる「平家納経」( 1300夜 ) だ。 〜  清盛は承安3年(1173)に大輪田泊の修築に着手し、瀬戸内海を運行するすべての運京船の入港を義務づけると、防波堤メンテナン...

松岡正剛の千夜千冊・1418夜

松岡正剛の千夜千冊・1418夜 梅原猛 『日本の深層 — 縄文・蝦夷文化を探る —』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1418.html 〜  梅原猛の母上は石巻の渡波(わたのは)の人である。石川千代という。父上の梅原半二は愛知の知多郡内海の出身だが、東北大学の工学部に学んで、そのときに石川千代と出会い、梅原猛を仙台で生んだ。 〜  しかしその懊悩は、やがて梅原の不屈の探求心と「負の思想」を駆動させてぶんぶん唸る内燃力となった。それが仏教研究となって火がつき、人麻呂の死への挑戦となり、それらがしだいに古代日本の各地の謎の掘り起こしへと広がり、総じてはいまや「梅原日本学」にまで至ったわけだった。  人生においては説明しがたい事態との直面こそ、しばしば「ヴァレリーの雷鳴の夜」( 12夜 )をつくるのだ。 〜  文庫本の解説は赤坂憲雄( 1412夜 )が担当した。「『日本の深層』は疑いなく、一個の衝撃だった。大胆不敵な、と称していい仮説の書、いや、あえていえば予言の書である」と書いている。 〜  さらに金色堂の一字金輪像を眺め、「東北のみならず、日本の仏像の中で最もすぐれた仏像だ」という感想をもつ。これは梅原らしい目利きであった。毛越寺の庭を見て観自在王院のよすがを偲び、毛越寺とは毛人(えみし)と越の国の蝦夷とを合わせたものかと想っているのも、なるほど、なるほどだ。 〜  花巻温泉に泊まって、和賀町で高橋徳夫・阿伊染徳美・菊地敬一・門屋光昭らと語りあい、この町の出身の東北学の泰斗・高橋富雄( 1415夜 )の東北論・蝦夷論に思いを馳せた。  梅原は、倭国といういじけた名を「日本」という国名に転じ、大王(おおきみ)やスメラミコトに新たな「天皇」というネーミングをもたらしたのは、ほかならぬ聖徳太子の仕事だろうと断じてきた人である。ただし、それにしては当時の日本も天皇も、倭国このかた「西に片寄りすぎてきた」とも感じていた。そうしたなか、高橋富雄が北の日本を称揚し、「北上はもとは日高見で、日の本も東北がつくった言葉だった」という見方をつねに主張しつづけてきたことには、いたく酔わせられる。この気分、ぼくもとてもよくわかる。 〜 梅原は傑作『祭の暁』や超傑作『なめとこ山の熊』...

松岡正剛の千夜千冊・1413夜

松岡正剛の千夜千冊・1413夜 高橋崇 『蝦(えみし)夷 —古代東北人の歴史—』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1413.html 〜 その、まつろわぬ者たちの物語。 古代東北に流れる歴史とは、いったい何なのか。 なぜ日本を治める者が 東北を制する征夷大将軍なのか。 〜  古代ヤマト朝廷がどのように蝦夷の地を分国的に見ていたのかは、このような記録以外にあまり正確な記述がないのではっきりしないのだが、いずれにしても蝦夷が当時の東北民を賤視蔑称していた呼び名であったことは、はっきりしている。しかもこのような見方は古代を通じ、さらには中世・近世にまで及んだ。 〜  この「蝦夷」とは、ヤマト政権が東北北部の続縄文文化を基層とする集団、新潟県北部の集団、北海道を含む北方文化圏の集団などを乱暴にまとめて「蝦夷」と一括してしまった種族概念であった。  つまりは「まつろわぬ者たち」という位置づけで総称された地域であり、そういう「負の住民たち」のことだった。だからエミシは自生したのでも形成されたのでもなく、逆形成されたわけである。 〜  ところがここに大事件がおこる。中央政府の東北最前線の最大の拠点であった多賀城が、宝亀11年(780)に焼き打ちされたのだ。伊治公(これはりのきみ)アザ麻呂の決起だった。  アザ麻呂は栗原の蝦夷の族長で、中央からも信頼が厚く、部課を率いて胆沢(いさわ=岩手県奥州市)や志波(しわ=盛岡市周辺)に対する蝦夷征討に加わってもいた。胆沢と志波は当時の東北エミシの「まつろわぬ者」の二大拠点だった。アザ麻呂は当初は中央政府の意図に沿ってそこを落とそうとした。  けれども、それが寝返ったのである。 〜

松岡正剛の千夜千冊・1412夜

松岡正剛の千夜千冊・1412夜 赤坂憲雄 『東北学/忘れられた東北』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1412.html 〜 大震災復興構想会議のメンバーとなった赤坂憲雄は、 どんな思いで「襲われた東北」を見ているのだろうか。 まずはその「東北学」を日本人の多くが知るべきだ。 そして、日本中央が東北にもたらした負の歴史を あらためて振り返るべきである。 〜  むろんたんなる旅人の眼ではない。そこには、「日本」および「日本人」をまとめて記述しようとしてきた柳田国男( 1144夜 )このかたの「一つの国家観」に対する反発がある。既存の民俗学の見方に対する注文がある。その注文は静かではあるが、激越だ。 〜  赤坂が最初に東北に入ったのは、北上山地山麓の九戸(くのへ)群の木藤古(きとうご)という村だった。わずか9戸の集落だったというが、ヒエやアワをつくり、炭焼きで暮らしを立てていた。雑穀の民だ。  このような雑穀の村が東北から消えていったのは、昔のことではない。ごくごく最近のこと、1960年代の高度経済成長期のあとからのことだ。東北は原発開発計画が俎上にのぼったころから、かつての東北を失っていったのだ。もしも東北を復旧するというなら、ほんとうはそこまでさかのぼることが復旧なのだろう。 〜  とりわけ赤坂の心を打ったのは「箕つくり」の民の実態だった。尾花沢近くの次年子(じねご)という村の実態だ。 〜  そこに登場してきたのが勇猛なアテルイとその一党である。アテルイは胆沢(いざわ=現在の水沢市・胆沢郡・江刺郡)の豪族だったようで、延暦12年(793)には中央から派遣されてきた大伴弟麻呂の一軍と戦ってこれを破り、平安遷都の渦中の朝廷を大いに動揺させた。 〜