松岡正剛の千夜千冊・1413夜
高橋崇
『蝦(えみし)夷
—古代東北人の歴史—』
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その、まつろわぬ者たちの物語。
古代東北に流れる歴史とは、いったい何なのか。
なぜ日本を治める者が
東北を制する征夷大将軍なのか。
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古代ヤマト朝廷がどのように蝦夷の地を分国的に見ていたのかは、このような記録以外にあまり正確な記述がないのではっきりしないのだが、いずれにしても蝦夷が当時の東北民を賤視蔑称していた呼び名であったことは、はっきりしている。しかもこのような見方は古代を通じ、さらには中世・近世にまで及んだ。
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この「蝦夷」とは、ヤマト政権が東北北部の続縄文文化を基層とする集団、新潟県北部の集団、北海道を含む北方文化圏の集団などを乱暴にまとめて「蝦夷」と一括してしまった種族概念であった。
つまりは「まつろわぬ者たち」という位置づけで総称された地域であり、そういう「負の住民たち」のことだった。だからエミシは自生したのでも形成されたのでもなく、逆形成されたわけである。
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ところがここに大事件がおこる。中央政府の東北最前線の最大の拠点であった多賀城が、宝亀11年(780)に焼き打ちされたのだ。伊治公(これはりのきみ)アザ麻呂の決起だった。
アザ麻呂は栗原の蝦夷の族長で、中央からも信頼が厚く、部課を率いて胆沢(いさわ=岩手県奥州市)や志波(しわ=盛岡市周辺)に対する蝦夷征討に加わってもいた。胆沢と志波は当時の東北エミシの「まつろわぬ者」の二大拠点だった。アザ麻呂は当初は中央政府の意図に沿ってそこを落とそうとした。
けれども、それが寝返ったのである。
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