松岡正剛の千夜千冊・1420夜
小島毅
『義経の東アジア』
〜
本書はもともと勉誠出版で同名の書籍として刊行された。義経についてのアジア的捉えなおしの展開はほぼこちらに書いてあったのだが、このたびはこれに「日本を東アジアから見るためのリベラルアーツ」ともいうべき見方についての補助章がいくつか加えられ、いっそう背景の被写界深度のレンズ効果が増した。
〜
かくて南宋は生き延びた。では、このことを日本から見るとどうなるかというと、清盛は金と日金貿易をしないですみ、日宋貿易に集中できたということになる。
〜
奥州藤原氏のほうはどうしたかというと、実は一方で清盛経由で宋を相手にしたとはいえ、実際には他方で北方の遼や金を相手にしていた。清衡・基衡・秀衡とは北方交易の王者なのである。これは何を意味するかといえば、奥州藤原氏は京の朝廷や福原の清盛政権に頼らずとも、独自の北方交易で奥州政権をそれなりに維持できたということだ。だからいまさら清盛の方針に従う必要はない。
ここに、もうひとつの“東アジアの義経”の意味が隠れている。清盛政権から源氏の政権に時代が移るとき、源氏の棟梁頼朝にとってはこのままでは具合が悪かったのだ。まして義経が奥州にいるということは、新たに政権を動かそうとしていた頼朝にとっては、もっとまずい。
〜
本書の著者の小島毅は、平家と源氏の対立をはなはだ斬新な視点でとらえている。それは「開国か、鎖国か」 ( 581夜 ) という視点だ。平家は開国を狙い、源氏は結局は鎖国的だったというのだ。
そもそも清盛と頼朝は「武の家」どうしの闘いであったとともに、大きくは東日本(東国)と西日本(西国) ( 706夜 ) の覇権争いでもあった。
〜
頼朝が義経を無慈悲に屠ったのは、“奥州義経”が清衡以来の開国性に富んでいたからだったのだ。
実は、その後に3代実朝が鎌倉八幡宮の大銀杏の下で殺されたのも、そういう事情によっていたと小島は見ている。実朝はなぜ殺されたのか。宋に心酔しすぎていたからだった。鎌倉幕府はそういう実朝を早々に抹殺することによって、いわば「関東農本主義」を基軸にした新たな「日本一国主義」の確立を急いだのだ。
この見方はかなり大胆である。
〜