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松岡正剛の千夜千冊・1419夜

松岡正剛の千夜千冊・1419夜
入間田宣夫編
『平泉・衣川と京・福原』
 衣川は北上川の支流である。現在の地理標識では、岩手県西磐井群平泉町と奥州市衣川区の境界を流れる。北上川が奥州をタテにつなぐ“母なる川”だということについては、前夜(1418夜)にもふれた。
 いま、衣川村には城郭ふうの郷土史料館「懐徳館」が設えられている。そのフロントガーデンには、ここを西行(753夜)が文治2年(1186)の初冬に訪れたときの歌を刻んだ2基の歌碑が、東西に分かれて立っている。…
 このとき西行は69歳で、平泉に来る途中に頼朝とも会っていたといわれるから、もしもそうならばすでに頼朝の奥州攻撃のプランを察知していたのであろう。「とりわきて心も凍みて冴えぞわたる衣川」という深い言いまわしには、そういう西行が察知した藤原4代に寄せる万感の無常と人情が詠われている。
 こうして3代秀衡の時代に、衣川には平泉館(柳の御所)を中心に、秀衡の常の御所(加羅の御所)、その秀衡の子弟の館などがずらりと並び立っていく。ちなみにこの地では「館」は「たち」と読む。「たち」としての館は「庁」(たち)でもあった。平泉館(柳の御所)は平泉政庁なのである。
 これは後白河による「天下三分の計」とでもいうべきもので、もしそのままいけば三国志の魏・呉・蜀のような日本が、西国・東国・東北にできていたかもしれなかった。
 さて、本書のタイトルの『平泉・衣川と京・福原』は、本書の冒頭におかれた高橋昌明の論考「西の福原と北の衣川・平泉」を反映している。最後にそのスコープを紹介しておく。義経が平泉と関係した背景を考えるうえでも、新たなヒントになろう。今度は清盛の話だ。
 平清盛が西国に勢力をはるようになったのは、久安2年(1146)に安芸守となって、軍神である厳島神を氏神と奉じてからのことだった。厳島神社への参詣は10度以上にわたり、華麗きわまりない写経本も奉納した。いわゆる「平家納経」( 1300夜 ) だ。
 清盛は承安3年(1173)に大輪田泊の修築に着手し、瀬戸内海を運行するすべての運京船の入港を義務づけると、防波堤メンテナンスのための修築料を徴収し、これをテコに日宋交易に乗り出していった。たちまち宋銭が流入、『百練抄』によると治承3年(1179)にはいわゆる「銭の病」が流行した ( 87夜 ) という。
…しかし高橋は、このあと頼朝が鎌倉に新たな幕府をつくりえたのは、「北の平泉的なるもの」と「西の福原的なるもの」の統合であったのではないかと結論づけるのである。