松岡正剛の千夜千冊・1435夜
尾形勇
『東アジアの世界帝国
— ビジュアル版「世界の歴史」8 —』
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7世紀から9世紀の東アジアには、
隋唐帝国という独特の中華世界が君臨した。
ここに突厥・イスラーム・ソグドから
高句麗・新羅・渤海・日本までが接地した。
すべての外交と経済と価値観が、
中国的なるものによって包括されたのである。
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…中国では「建前も本音も両方とも立てる」のだが、そこはどうか。日本では建前を立てて、本音を別のところで洩らすようだけれど、そんなことは儒教では通らない。日本では「両天秤」といえば汚い手か、日和見主義と受け取られるけれど、中国では両天秤こそ哲学なのである。
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南北を分ける大きなラインは、淮河から秦嶺山脈にかけてのベルト地帯にある。その北には5400キロの黄河が、南には6300キロの長江(揚子江)が流れて、南北の特色を「南稲北麦」「南粒北粉」「南船北馬」( 331夜 ) というふうに分ける。
北側の大黄土地帯は昔から雨量が少なく、春風には黄塵・黄砂が舞って目も口も鼻も容易にはあけられない。そういう風土だから、ムギ・アワ・キビの雑穀が強い。そのため雑穀をいかした「粉食」が中心になってきた。これは、北の中国には堅い殻を取り去ってそれを粉にして加工する巧みな技術と、そういう生活の知恵がいろいろあったということでもあって、それゆえ饅頭(マントウ)、包子(パオズ)、餃子(ジャオズ)、油条(ヨワティヤオ)、麺類(ミェン)が発達した。
日本人が華北を旅して最初に感じるのが強烈な喉の渇きと真冬の寒さであるように、その強烈な風土が北の歴史と文化をつくってきたわけである。これに対して南の江南は、高温多雨でコメの水稲や野菜が唸っている。南は水と水運に恵まれ、茶やハーブが発達して漢方薬の宝庫になる。
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それとともにその後のチャイニーズ・エンパイアを俯瞰すべき世界観もできた。これがその後の一貫した中国的世界模型のモデルになる。『周礼』には、世界を天円地方とみなし、中央に王城(首都)を築いてその中心に王宮を構えると、前後に朝堂と市場を、左右に宗廟と社禝(しゃしょく)を設けることが謳われている。また、王城の周辺1000里四方は「王畿」となり、その周辺の500里ごとに「侯服」から「藩服」にいたる9つの地域社会(九服)が分割された。九州ともいう。
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この思想を提供したのは孟子である。孟子は、天命を失った天子は新たな天命を受けた天子に交替しなければならず、それには平和的な「禅譲」と武力による「放伐」とがあるとした。湯王が桀を追放し、武王が紂を討伐したのが放伐の先例で、孟子はこれを正当な革命とみなしたのである。革命があれば易姓が変わる。湯武放伐論として名高い。
日本ではこの湯武放伐論が日本的に絞られて、吉田松陰(553夜)のラディカルきわまりない『講孟余話』がそういうふうになっているのだが、君子を諌めて三度受けいられないようなら、あえて放伐を辞さないというふうになった。しかし中国ではそこまでクリティカルには解釈しない。孟子は君主と臣下の関係を双務的なものだと見抜いたと解釈する。つまり「禅譲」も「放伐」も、実は中国的な“契約”なのである。しかもその契約は双務的なのだ。
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こうしたジグザグな変遷のあと、儒・仏・道の三教をバランスよくコントロールして、全体を仏教理念でくるんでいったのが隋の文帝であり、それを儒教で大きくくるんでいったのが唐の太宗(李世民)だった。隋唐帝国はこうした三教のいずれにも花を咲かせたのである。いいかえれば隋唐帝国はジグザグを内包したまま世界帝国になりえたわけである。
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渤海が国の様相を呈したのは、高句麗が滅んだからだった。唐が大軍を高句麗に送りこんできたとき、この国の前身は中国東北地方から朝鮮半島北部にまたがっていた。ここを唐の遠征軍が高句麗を討っているあいだ、大祚栄が必死に守っていた。牡丹江上流の間島(かんとう)を拠点に、高句麗人や靺鞨(まつかつ)人といったツングース系を統合していたのである。そのときこの国は「震」とか「大震」といっていた。“東方の国”という意味だ。
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その渤海が聖武天皇の727年に、突如として日本に使節を送ってきた。高斉徳らの8人だった。「われわれは高句麗の旧居を復し、扶余・百済の遺俗を大事にしている」と自己紹介し、意外なことに自主的に交流を求めてきたのである。その後、渤海は醍醐天皇の時代までなんと34回にわたって使者を送り、日本は13回の使者を送っている。
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