松岡正剛の千夜千冊・1436夜
礪波護
『隋唐の仏教と国家』
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著者の礪波護(となみ・まもる)のことは、中公「世界の歴史」シリーズの『隋唐帝国と古代朝鮮』で知ったあと、気になって読んだ『馮道:乱世の宰相』(中公文庫)が味よく印象深かった。長らく京大の人文研にかかわっていた中国史家である。
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隋の文帝の時代に、法琳(ほうりん 572~640)という僧侶がいた。幼少期に出家したが、23歳で都市型の仏道修行に疑問をもって、青渓山の鬼谷洞に隠棲した。
法琳は昼は仏典を読み、夜は俗典を覧読するという日々をおくった。仏教にも儒教にも道教にも親しんだ ( 750夜 ) のである。7年がたった仁寿1年(601)に長安に出て、関中各地を遍歴しながら奇妙なことを始めた。
老子のタオイズム ( 1278夜 ) を教理として自分なりに体現したいと思って、方便として僧服を脱ぎ、髪を伸ばして俗人の姿するようになったのである。つづいて隋末の義寧1年(618)には道士の黄衣を着て道観に出入りした。さらに道教の秘籍を縦覧して、ついに道教が虚妄の巣窟であることを見抜いたので、ふたたび仏僧に戻って仏典のすばらしさの探求に入った。青渓山に入ってから24年間もそういうことをしていたのである。
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傅奕(ふえき 554~639)という男がいた。法琳より20歳ほど年上である。北斉が北周に併呑されるころ、長安の通道観にいた。
隋の文帝は国家鎮護のための仏教を興そうとして大興城を造営し、その東に大興善寺という仏教センターを構えたのだが、同時にその西に通道観を対称的に構えた。通道観はその後、玄都観として道教センターの様相を呈した。傅奕はその玄都観に入った。
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李淵は高祖となった。このとき傅奕が太史丞に任ぜられ、「漏刻新法」などの天文に関する奏上などをするようになった。たいへんな出世だ。
しかし傅奕が奏上したのは天文の件だけではない。武徳4年(621)には「廃仏法事十有一条」といった廃仏論を提言していたのである。唐朝が仏教をとりいれるとどれだけ危険かを述べた。沙門を禿丁、ブッダを胡鬼呼ばわりもしていた。
これに対して仏教護法の論陣をはったのが法琳だった。法琳は『破邪論』を書いて、傅奕の論拠が道教にもとづいていることをすぐに見破り、持ち前の道教文献を逆用して徹底反駁した。高祖は困った。新たな国家を護持できるのは仏教か、道教か、それとも儒教なのか。
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しかし礪波護は、二人の論争にこそ仏教と国家をめぐるその後のイデオロギーの歴史の本質がひそんでいたと見た。その通りだったろう。本書には井波律子の短いけれども要訣をえた解説が付されているのだが、井波は、中国史にひそむ宗教と国家のせめぎあい、すなわち王法と仏法の相克と癒着と激しい攻防 ( 777夜 ) は、本書によってみごとに浮き彫りにされたと指摘した。
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