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松岡正剛の千夜千冊・1535夜

松岡正剛の千夜千冊・1535夜
山崎努
『俳優のノート』演劇
リア王は老いた暴走王である。
すでに狂っている。それが悲劇であるのか、
愛の結末であるのか、それとも
何かを捨てようとしているのかは、わからない。
シェイクスピアは「世界は裂けている」と
言って、罠と仮説をのこしたのだ。
 修業とか稽古というものは、こういうふうに並大抵を超えて徹底するのだということが、筋張った背骨にも、ふつふつと滾る細胞群にも滲みとおる。
 そもそも山崎は「劇は劇薬でなければならない」という意志の持ち主だ。自己満足型のぬるぬる芝居を認めない。
 演劇のほうは、井上ひさし(975夜)の新作『紙屋町さくらホテル』、過去の新劇の傑作から選んだ『夜明け前』(196夜)、シェイクスピア(600夜)の『リア王』がオープニングに選ばれた。
 で、『リア王』であるが、こちらは松岡和子の訳で、鵜山仁が演出にあたり、山崎努がリア王を演じることになった。グロスターは滝田裕介、長女ゴネリルが范文雀、次女リーガンが余貴美子。コーディリアには高校生の新人・真家瑠美子が起用された。エドガーは渡辺いっけい、道化は高橋長英だ。
 しかしそれ以上に難問なのは、山崎がリア王をどのような人物として理解しきるかということだった。それはセリフの一つひとつの解釈の格闘になる。
 たとえば2幕4場。リアが「ああ、はらわたが煮えくり返る。胸に突き上げてくる」と言う。何が胸に突き上げてくるのか。ただの感情であるはずがない。怒りだとすれば、何に対するものなのか。これは母親のヒステリーがリアの胸に突き上げてきたのだ。だからこそ、その直後の「怒りよ、沈め」のセリフが意味をもつ。
 山崎はこうした点検をへて、リア王にひそむ女性嫌悪(ミソジニー)をどのように表現するかという課題を、自身の内なるハンガーにぶらさげていく。また、リア王が「捨てていく男」であるとみなして、この男を演じるには「捨てていく旅」を全身であらわす必要があると心に決める。
 つまりは、ここには三者三様の狂人がいる。シェイクスピアはこの「三狂」を自在に弄び、そのあいだにただ一人の正気である忠臣ケントをおいた。
 山崎にとって大事なことは、当たり前のことだが、それらの狂気のすべてを演じ分けるのではないということだ。これは組織における活動においてもヒントになるところだ。山崎はそのうちのリアの狂いっぷりのみを演じなければならないのである。山崎はしだいに覚悟を決めていく。
 長じて、『リア王』を読み、舞台を見るようになって、リア王の狂気が尋常のものではないことがだんだん知れてきた。狂い方が尋常でないのではない。そこに蓄積された「人間の宿命」や「世界の裂け目」が尋常ではないのだ。
 もう一つ、気がついた。「狂気」は「学習」と同義語なのではないかということだ。ぼくはこの山崎の発見に感心した。まさにそうなのだ。
 すでに白川静(987夜)さんが指摘していたことだが、人間がめざすべきものとして「聖」はもちろんベストであろう。けれどもこれにはそうそう容易には近づけない。そこで次に選択すべきなのが「狂」なのだ。「狂者は進みて取る」なのだ。
 そもそも「狂」という文字は、王がいよいよ出立するにあたって鉞(まさかり)を自身の足に加えて、これからの幾多の遭遇を覚悟するという意味なのである。白川さんは「孔子もそうした」と考えた。

 まさに狂気は新たな学習の覚悟の様態を示すのだ。このことはリア王にもあてはまる。孔子としてのリア王だ。










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