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松岡正剛の千夜千冊・1645夜

松岡正剛の千夜千冊・1645夜
宮元啓一
『インド哲学 七つの難問』
 宮元は、泣く子も黙るというか、いまや就職先がないので有名な東大の印哲(インド哲学科)の出身だが、中村元(1021夜)さんの東方研究会の研究員をしたり(だから中村さんの考え方を大きく継承している)、春秋社の編集部にいたりしていたので(山折哲雄さん=1271夜も春秋社の編集者だった)、堅い本も柔らかい本も、そこそこおもろしい。現在は講談社学術文庫に入っている『仏教誕生』や『仏教の倫理思想』は堅い骨格動物のような読みごたえがあり、春秋社の『なるほど仏教400語』や『わかる仏教史』(現在は角川ソフィア文庫)は柔らかい麺類のような説得力がある。
 ぼくは量子力学者シュレディンガー(1043夜)の『生命とは何か』が、このヴェーダンタ哲学に言及しているのを知って、どこかから忽然と英知の声をもらったような気がしたので、当時住んでいた新宿御苑近くの図書館で全部で9巻の『ウパニシャッド全集』を見つけ、とても興奮したものだ。しばらく繙読に通った。世界文庫刊行会が大正13年に刊行した古色が燻し銀のように輝いていた全集だ。高楠順次郎が監修、木村泰賢(96夜)が翻訳にあたっていた。
なかでも紀元前4世紀の天才的な文法学者パーニニの『アシュターディヤーイー』は一般には「パーニニ文典」と呼ばれるのだが、約4000ほどの論理記憶用のスートラ(短句)を用意して、インド哲学の基本用法を組み立てるための、いわば人工知能のプログラミング言語のようなものを提供した。これらは紀元前2世紀にはパタンジャリによってさらに精緻に磨かれる。
【第1難問】ことばには世界を創る力があるのか?
サッティヤはそれこそ「必ずその通りにものごとを実現する力をもつもの」という意味だ。言霊っぽい。
【第3難問】本当の「自己」とは何か?
 これもかなりの難問だ。ずっとそう思われてきた。「私」って何かだなんて、とうていわかりそうもない。哲学が躓いてきたものがあるとすれば、それこそは「自己」や「私」なのである。
【第6難問】知識は形をもつか?
インド哲学では、もともとが「世界=器世間=システム=知」なのである。根源的な言語作用によって梵我一如化されたアートマン=ブラフマン状態が「知」の母型なのである。つまり、インド哲学ではシステムとコンテンツは分かれないのだ。
【第7難問】どのようにして、何が何の原因なのか?
 やがて原因の中にどのくらい結果の種があるのかどうかということ、その関係をどのように見るのかということが、インド哲学の全般でも最大の問題になっていった。