松岡正剛の千夜千冊・1686夜
並川孝儀
『ブッダたちの仏教』
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けれども現状では、その兆候はまだ少ない。隘路を突破できていない。日本にいると、そのことを負担のように感じる。仏教は寺や仏像や坊さんに囲まれている日本人(1498夜)にこそ、肝心なところが理解されていないのだ。
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それより、大きくはユダヤ=キリスト=イスラム教が「一神教」で組み立てられてきたのにくらべて、東のヒンドゥ=ブッディズムは徹して「多神多仏」であることが最大のわかりにくさになっている。これがうまく説明できていない。
ユダヤ=キリスト=イスラム教にも「預言」「約束の地」「処女懐胎」「復活」「啓示」「三位一体」など、ふつうの理解では納得できないところが多々あるのだけれど、それをかれらは一神教的ヒエラルキーとロジックで巧みに充填してきた。どんなふうに充填したのか、千夜千冊でもオリゲネス(345夜)やアウグスティヌス(733夜)などを例にして、角川の「千夜千冊エディション」では『文明の奥と底』(角川ソフィア文庫)で、そこのあたりのことを解説しておいた。
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独特なのは宗教の教説だから当然だが、日本人にはそれらを読む(理解する)ための大きなブラウザーがちゃんと据えられていない(1605夜)ようなのだ。スコープだ。そのスコープをもったブラウザーが示すべきは、ブッダその人が多神多仏ならぬ多身多仏だということなのである。
ブッダは一人とはかぎらない。ブッダは多身で、多仏なのである。そのことをこのあと説明するが、この、ブッダの捉え方が多身で多仏になっているというスコープがわからないと、仏教の深みは掴みにくいだろうし、そこを前衛的なソフトウェアのアプリ(1646夜)のように説明してきた仏教のよさが見えてこない。
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わかりやすくいえば、大過去のブッダ(覚醒者たち)と永遠存在としてのゴータマ・ブッダが時間と空間をこえて概念的に同一視されたのである。
過去七仏は同一人物ではない。しかし、何かの深い共通性があってしかるべきである。そこで七仏たちは「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」(悪をなさず善を行い、みずからの心を浄めることが諸々の仏の教えである)を共通の教えにして、世界の救済を確信していたのだとみなされた。この共通のコモンセンスを「七仏通戒偈」という。
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というわけで、仏教は「たくさんのブッダたち」を、時間と空間をともなって、また数々の仏身をともなって、つくりだしてきたのだった。ぼくは仏教関係者たちがこのことについての説明を、もっとしやすいようにしていったほうがいいと思ってきた。
日本にはどこにでも仏像がある(0198夜)。そのいちいちの背景をそろそろ愉しむようになったほうがいいのではないか。
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