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松岡正剛の千夜千冊・1689夜

松岡正剛の千夜千冊・1689夜
高山樗牛
『瀧口入道』
 今夜は高山樗牛(たかやま・ちょぎゅう)についての話をしたいと思います。明治4年の生まれです。樗牛は今日でいうなら、さながら「浪漫右翼」ともいうべき日本主義的で過激な思想を表明して、ニーチェ(1023夜)や日蓮にも傾倒するのですが、わずか32歳で亡くなりました。子規(499夜)や漱石(583夜)とほぼ同時代でした。
 その樗牛が22歳のときに『滝口入道』を書いた。平家物語の「横笛」を翻案したものです。
けれども横笛は悲しみと寂しさに堪えられず、しばらくしてこの世を去ってしまいます。一方の時頼のほうは一心不乱に修行に励み、おかげで父も勘当を解いてくれた。その後、滝口の入道はその品性が巷に伝わるほどの「高野の聖」と呼ばれるように (0063夜)なりました。
 この時頼と横笛の話を、高山樗牛が一篇の『瀧口入道』に仕立てたのです。樗牛が23歳のときで、東京帝国大学哲学科に入った年の11月、読売新聞が募集した歴史小説に応募するために書いたものです。明治26年のことでした。この時期にこんな小説を書いたことが重要です。
 選者は坪内逍遥、尾崎紅葉(891夜)、幸田露伴(983夜)だったから、一筋縄ではいきません。
 樗牛は平家の原作(といっても、これも「語りもの」 (1633夜) ですが)を少し翻案しています。全容に平家の華麗な「もののふの奢り」を配し、冒頭で時頼が横笛と出会う場面を、清盛が西八条殿で催した花見の宴での出来事にヴァージョンアップした。時頼がこの宴の一隅にいたところ、そこで建礼門院の侍女であった横笛が舞を披露したというふうに、鮮やかな場面に仕立てたのです。樗牛は白拍子の扮装と舞 (1154夜) だったと書いています。
 岡倉天心(75夜)はそういう日本が海外から馬鹿にされているのに業を煮やし、明治30年代に入ると『東洋の理想』『日本の目覚め』『茶の本』を英文で続けさまに書きました。『茶の本』には「いつになったら西洋が東洋を了解するであろう。否、了解しようと努めるであろう。(略)西洋の諸君、われわれを種にどんなことも言ってお楽しみなさい。アジアは返礼します」とあります。
 日本はあきらかに何かを見失っていた。明治20~30年代はそういう時代です。
 こうして明治グローバリズムの中で、あらためて「日本」あるいは「日本人」とは何かが問われはじめていったのです。天心ばかりではない。露伴(983夜)も漱石(583夜)も、福沢諭吉(412夜)も徳富蘇峰(885夜)も、与謝野鉄幹も石川啄木(1148夜)も、その「日本および日本人を問いなおす」 (0914夜) という点にこだわっていました。
 そうした明治20年代の清新な濁流の渦巻く季節のなかに、若き樗牛が登場してきたわけです。
 上行菩薩というのは法華経 (1300夜) の「従地涌出品」(じゅうじゆうしゅつぼん)に語られる菩薩のことで、世の危機に際して大地から湧出してくる変革的な菩薩のことです。
日蓮は自方は上行菩薩の生まれ変わりだと確信したのですが、智学はそのような者になるべきことを青年に説いたのでした。樗牛はここに応じたのです。