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松岡正剛の千夜千冊・1697夜

松岡正剛の千夜千冊・1697夜
小池清治『日本語はいかにつくられたか?』
 本書はよくできた一冊だった。6人の「日本語をつくった男」を軸に日本語の表記をめぐる変遷を近代まで読み継がせた。6人は太安万侶、紀貫之、藤原定家、本居宣長、夏目漱石、時枝誠記だが、これは代表者たちで、これに先立った応神紀の記述の検討や、空海から二葉亭四迷に及ぶ他の改革者や表現者も登場する。
 その文庫版のあとがきに、6人が6人とも男になってしまったのが心残りになった、できれば紫式部か清少納言を入れたかったと書いていたが、なるほどそうだったかもしれないが(世阿弥や芭蕉も入れてほしかったが)、だからといってそれが本書の瑕瑾になったとは思わない。
 言葉は社会環境や集団環境の中で喋りあっているうちに習得できることが多い。ただしこれはあくまで「発話力の習得」であって、そこから「文字の習得」に至るにはそれなりの飛躍や相互作用が必要になる。
 言葉は文字をともなって生まれたのではなく、あとからできあがった文字表現システムが過去の言葉を“食べていった”のだ。それゆえその文字表現システムは集団やコミュニティではなく、文明のエンジンや文化の陶冶がつくりだした。
 「然あれども、上古之時(かみつよのとき)は言(こと)と意(こころ)と並(とも)に朴(すなほ)にして、文(ふみ)を敷き句(こと)を構ふること、字(からな)に於ては難し。已(すで)に訓(よみ)によりて述べたるは詞(ことば)心にに逮(およ)ばず。全く音(こえ)を以(も)ちて連ねたるは事の趣(おもむき)更に長し」。
 ただ、その日本語表記構築能力があまりに深かったか、あるいは複合的で複雑だったせいで、また随所に多様な「注」を入れ込んだので(訓注・声注・音読注・解説注など)、その後の日本人は『古事記』を“読解”するのにかなり苦労した。すらすら読めた者などいなかった。
 このためのちのちまで、本居宣長(992夜1008夜1263夜)は『古事記伝』を書くのに35年がかかり、昭和45年に始まった岩波の「日本思想大系」第1巻に予定された『古事記』訓読さえ、小林芳規はその作業に昭和45年(1970)から始めて13年がかかったのである。
 日本人が仮名を発明したことは、日本語の歴史にとっても世界の言語史においてもすこぶる画期的なことだった。表意文字(真名=漢字)から表音文字(仮名=日本文字)をつくったのだ。ドナルド・キーン(501夜)は「仮名の出現が日本文化の確立を促した最大の事件だ」と述べた。
 貫之が日本語にもたらしたのは「仮名書きの表現力」と「和文の魅力的な構成感覚」である。とりわけ晩年に創作した『土佐日記』がその可能性を女たちにもたらした。女たちにもたらしたばかりではない。日本語の表現世界にこれまでにない新風をもたらした。
 冒頭に「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と宣言したことは、それまで男性貴族が漢文でしか書いていなかった日記を(日録に近いもの)、仮名ばかりを用いて気持ちを述べる日記にして女たちに開放させることになった。貫之が女に仮託して綴ったこのトランスジェンダーな試みについては、ぼくも何度も称賛してきたことであるけれど、これこそは日本の仮託表現史の金字塔であって、また仮名文学の劈頭を飾るものになった。
 小池はそればかりではなく、『土佐日記』によって、磨かれた和文表現がその表現の裏にひそむ「心情と意図の二重性」を日本語表現にもたらすことになったことも強調した。それは掉尾を飾る「見し人の松のちとせに見ましかば遠く悲しき別れせましや」という歌にも象徴されていると言っている。
 これだけの仕込みが一挙に仕掛けられたのである。効果はてきめんだった。貫之の画期的な実験の数々は『伊勢物語』から『源氏物語』(1569~1571夜)へ、『更級日記』から『和泉式部日記』(285夜)へと、あっというまに広がっていった。
 縄文以来オラル・コミュニケーションに遊んできた日本語は、仮名の発明によってその表現性を文字にも「分かち書き」や「散らし書き」などの書にも示せるようになったのだが、それは法則や方式をもって出現したのでなかった。そのことに気づいたのが書写をしつづけていた定家だったのである。
こうして仮名文化は仏教界にも及んでいった。仏教界も日本語の表現や仮名遣いに新たなものをもたらした。なかで注目すべきなのが「仮名法語」である。すでに源信の『横川法語』にその試みが始まっていた。
 この仮名によって教えを伝えるという方法は、法然(1239夜)や親鸞(397夜)の和讃によってさらに広まった。それも初期の漢文訓読調からしだいに和文調へ、七五調へと変化した。そこには今様に通じる親しみやすい歌謡性が芽生えた。
 大正14年、若き時枝誠記(ときえだもとき)が「日本ニ於ル言語観念ノ発達及ビ言語研究ノ目的ト其ノ方法」という卒業論文を東京帝国大学国文科に提出した。時枝は西欧の文法にもとづいて日本語を見ることに不満をもっていて、むしろ国語にはその民族や国民なりの言語観念があるのだから、それを研究すべきだと主張したのだった。
 新しかった。時枝が持ち出したのは、日本語は「詞」と「辞」でできているというもので、それを視点にして日本語文章を見ていくと、それは「タマネギ型」でも「扇型」でもなく、むしろ「入れ子構造型」というものになっているのではないかということだった。