松岡正剛の千夜千冊・1699夜
水村美苗
『日本語が亡びるとき
- 英語の世紀の中で - 』
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言語文化というばあい、水村はこの3つの普遍語・現地語・国語のそれぞれの変遷と特徴を比較しながら慎重に観察しなければならないと見えている。しかし実際にはどうだったのかといえば、これらは混同されてきた。また相互に犯されてきた。とくに普遍語と国語について見誤りがおこってきた。
なぜなのか。そのことを議論するにあたって、水村はいくつかの足掛かりを用意する。
ベネディクト・アンダーソン(821夜)に『想像の共同体』(リブロポート→NTT出版→書籍工房早山)という有名な一冊がある。
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本書には、そんな圧力に抗しようとしていた水村がパリで講演したときの「二つの時間」というスピーチが収録されている。
水村はジュニア・ハイスクールでフランス語を選択し、美術学校に行き、大学と大学院ではフランス文学を専攻し、二十歳のときにはフランスに留学もしていた。そこそこフランス語は喋れるし、読める。「二つの時間」はそういう水村がそのフランスの選ばれた聴衆に、「私たち日本人は、フランス語と日本語の深い非対称性の中にいるのです」という話をしたときの記録だ。
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読んでみて伝わってくるのは、主人公が自身のアイデンティティを「血」ではなくて、あくまで「言葉」に求めようとしていたということだ。水村はスピーチをこんなふうに結ぶ。「私は、なによりも日本語という言葉の、ほかのなにものにも還元することができない、物質性を浮き彫りにしたかったのです」。
漢字・ひらがな、カタカナ・ローマ字がまじる日本語の奇妙な物質性を通して、なんとしてでも「私」をあらわしたかったと言いたかったのだった。
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おわり近く、水村はしきりに福田恒存(514夜)の言葉を引用し、日本語の標記がぐちゃぐちゃになっていく様子をともに悲しんでいる。それとともにジャク・デリダが音声中心主義が書き言葉の本質を失わさせているという批評を展開するのを尻目に、こっそり次のように書いて、筆を擱(お)いている。
……日本語や朝鮮語のような〈書き言葉〉は一見例外的な〈書き言葉〉に見えるが、実は、その例外的な〈書き言葉〉こそが、〈書き言葉〉は〈話し言葉〉の音を書き表したものではないという、〈書き言葉〉の本質を露呈させるものなのである。フランス人には内緒だが、そんなおもしろい表記法をもった日本語が「亡びる」のは、あの栄光あるフランス語が「亡びる」よりも、人類にとってよほど大きな損失である。
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ぼくは水村の主張をもっともっと掘り下げる議論がおこってもよかったと見ていた。それとともに、このような問題を片岡義男、イ・ヨンス(1080夜)、鈴木孝夫、リービ英雄(408夜)、今福龍太(1085夜)、多和田葉子、イアン・アーシー(579夜)らと語りあいたいと思っていた。そのうち、そんな仮想ディスカッションを想定した千夜千冊エディションを試みたい。
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