松岡正剛の千夜千冊・1712夜
エトムント・フッサール
『間主観性の現象学
—Ⅰその方法 Ⅱその展開 Ⅲその行方—
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アリストテレスからヘーゲルにいたるまで、客観と主観は分けられないままに現象を記述する工夫をしてきた。これがヨーロッパ2000年の哲学のジョーシキというものであり、「西の世界観」の骨髄というものだった。
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数学が「厳密な学」を記述するための最も信頼に足る基礎を提供していることはわかっていた。ただ、そういう数学が世界や意識の現象の何をモデル化しているのか、つきとめられてはいない。数学が無矛盾性を確立できているのかどうかも検証できないでいた。
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フッサールはヴァィアーシュトラースが示した根本主義(Radikalismus)に惹かれ、その見方によって「厳密な学」をもっと一般化できないかと考えた。そんなときブレンターノの講義を聴いてハッとしたのだ。ブレンターノは「心は対象的な現象がおこっていくことについて志向性をもつ」と言っていた。
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ふつう、認識は自己意識の進行によって進むと考えられる。その自己意識は何ものかについての意識でもある。だからどんな意識にも対象的なものが入りこんでいる。主観性には必ずやそうした対象や客観が入っている。だからこれらの自己意識はうまくすれば世界観に到達しうる。しかしフッサールによれば、そのプロセスには現象学的な還元(遮断と復活)こそが必要だったわけである。
一方、世界はそのような認識主体がたくさん集まってできあがっているともいえる。主観の束によって世界は形成されていると見てもいい。だから世界のほうから見れば、世界はもともとが間主観的なのである。
このような見方を説明するにあたって、フッサールは『間主観性の現象学』において「キネステーゼ」(KInästhese)という造語概念を持ち出した。ギリシア語のキネシスとアイステーシス(アスレチツクス)を合成したこの言葉は、文字どおりには「運動感覚」ということになるが、フッサールが暗示したかったのは認識主体や思考主体が生み出す現象感覚のようなものだった。
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1889年が明けた1月、ニーチェ(1023夜)がトリノの広場で昏倒した。昏倒したが、ニーチェは哲学の危機がどのようなものであるか、雄弁に告知していた。現代哲学のターニングポイントは、この昏倒とともにおこっていたのである。
この年にフロイト(895夜)が「夢」や「無意識」に注目し、ベルクソン(1212夜)が『時間と自由』によって学位を授かり、ヒトラー、ヴィトゲンシュタイン(833夜)、ハイデガーが生まれた。フッサールは『算術の哲学』を準備しているときだった。
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1920年にフッサールの誕生パーティでハイデガーと出会ったヤスパースは「実存哲学」を提唱し、『理性と実存』に「理性を欠く実存は、感情・体験・衝動・本能・恣意に支えられて盲目的な強制に陥る」として、理性の復活を謳った。ベルクソンの「創造的進化」を全面に押し出す動き、文明中心のヨーロッパではなく南米に「野生の思考」を求めるレヴィ=ストロース(317夜)の社会人類学、ロシア革命によって樹立した労働社会をモデルに構築されていった社会主義社会の展望なども、踵(きびす)を接して並びあっていった。
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いろいろの課題が浮上したが、従来の課題の延長線上にあるものではまずいのではないかという見方も出てきた。それはカミュ(509夜)らが持ち出した「不条理」であり、レヴィ=ストロースが注目した「非西洋」であり、ハイゼンベルク(220夜)の「不確定性」やゲーデル(1058夜)の「不完全性」だった。
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エトムント・フッサール
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