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松岡正剛の千夜千冊・75夜

松岡正剛の千夜千冊・75夜
岡倉天心
『茶の本』
01. 西洋人は、日本が平和のおだやかな技芸に耽っていたとき、日本を野蛮国とみなしていたものである。だが、日本が満州の戦場で大殺戮を犯しはじめて以来 ( 575夜 ) 、文明国とよんでいる ( 705夜 ) 。
02. いつになったら西洋は東洋を理解するのか。西洋の特徴はいかに理性的に「自慢」するかであり、日本の特徴は「内省」によるものである。
03. 茶は衛生学であって経済学である。茶はもともと「生の術」であって、「変装した道教」である。
04. われわれは生活の中の美を破壊することですべてを破壊する。誰か大魔術師が社会の幹から堂々とした琴をつくる必要がある。
05. 花は星の涙滴である。つまり花は得心であって、世界観なのである。
06. 宗教においては未来はわれわれのうしろにあり、芸術においては現在が永遠になる。
07. 出会った瞬間にすべてが決まる。そして自己が超越される。それ以外はない。
08. 数寄屋は好き家である。そこにはパセイジ(パッサージュ=通過)だけがある。
09. 茶の湯は即興劇である。そこには無始と無終ばかりが流れている。
10. われわれは「不完全」に対する真摯な瞑想をつづけているものたちなのである。

 大胆にもたった十箇条のモナドロジーに集約してみたが、ここに天心の『茶の本』の精髄はすべて汲みとられていると思う。
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驚くべきは08で、「数寄」あるいは「数寄屋」を一言で「パセイジ」と喝破しているところ、この第908夜ヴァルター・ベンヤミンふうの断条などぼくはこの20年にわたっていろいろな機会を通してつねに強調してきたことだが、それを得心できる学者も茶人もまことに少なかったのである。数寄とは、好くものに向けて多様な文物の透かしものを通過{パセイジ}させていくことなのである。それを二つの櫛の歯を空中で互いに交差させるように実感することなのだ。しかし、以上の十箇条のなかで最も天心の美学思想を天に届かせているのは、10の「不完全」をめぐる瞑想的芸術観であろう。これは、往時は第850夜与謝蕪村や浦上玉堂に発露して、のちのちには第356夜堀口捨巳やイサム・ノグチ ( 786夜 ) に飛来するまで、日本人がついぞ世界にむけて放てなかった哲学だった。天心はそこを、「想像のはたらきで未完成を完成させるのです」と言っている。
 かつてぼくは、天心を理解するにあたって五浦(いづら)に行かなくてはならないなどとはおもっていなかった。…それが26歳の早春、思い立って上野から常磐線急行に乗って勿来(なこそ)へ、勿来からバスを乗り継ぎ平潟(ひらかた)を抜けて五浦を訪れた。天心を知り尽くしたいと思ったのだ。
 明治19年、25歳の天心は図画取調掛主幹となって欧米に行く。主要な美術館をほぼ巡ったのに、イタリア・ルネサンスの絵画彫刻に感嘆したほかは、大半の近代美術に失望していた。「空しく写生の奴」に堕しているというのだ。第988夜道元や雪舟の入宋入明体験と酷似して興味深い。道元も雪舟も「彼の地には学ぶものが少ない」と言って帰ってきた。
予期せぬスキャンダルが待ちかまえていた。発端は初代のアメリカ全権公使となった九鬼隆一が、折から欧米美術視察中の天心がアメリカに立ち寄ったときに、妊娠中の夫人波津(星崎初子)を天心にエスコートさせて日本に帰らせたことにある。夫人は異国で出産するのが不安で帰国を望んだのだが、海を渡って横浜港に帰るまでのあいだ、どちらがどうとはわからないものの、二人には何かが芽生えたようだ。明治二十年のことである。 …天心は校長の座を追われた。橋本雅邦も高村光雲も追われたが、天心を慕う教官24名も下村観山・横山大観・剣持忠四郎・六角紫水をはじめみずから辞表を書いて、殉ずることを厭わなかった。
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 その後、天心は遊蕩に走らなかった。ひとつには大観・春草に日本画の究極的な冒険を促した。世間はこれを「化物絵{ばけものえ}・朦朧画{もうろうが}」と揶揄したのだが、この実験成果は大きい。
 またひとつにはインドに旅立ってロンドンに寄り、さらにボストンに入って、そのそれぞれの地で英文による『東洋の覚醒』『東洋の理想』『日本の覚醒』を書いたことである。