松岡正剛の千夜千冊・726夜
荘子
『荘子』
〜
万物斉同、絶対無差別。道諛の人、真人ありて後に真知あり。虚静恬淡、寂寞無為。大瓢用なし、無用の用。雷声にして淵黙、淵黙にして雷声。わっはっはっは。
〜
うらうらとした春の日のことだった。
荘子はうつらうつらと夢を見ていた。ふと気がつくと、自分がふらふらと胡蝶になっている。胡蝶となって空を翔び、花から花を上から眺めて遊んでいる。荘子は夢に胡蝶となったのである。けれども、夢のなかでは胡蝶そのものが荘子となってひらひらと飛んでいる。そのうち、その夢の中の胡蝶の目がさめて、荘子はふたたび荘子に戻っている。
〜
もともと夢を見るのは荘周(荘子)の得意なのである。『荘子』にもしばしば夢の話が出てくる。
次の話は荘子の先輩格の列子が教えた話だとおもうのだが、ある宰相に仕えている下僕は一刻も休むまもなく働いている男で、夜にはぐったりしている。ところが、なぜか毎晩夢を見る。その夢ではたいてい自分が宰相になって、その宰相を下僕に使っている。これでは下僕の白昼の労働の苛酷が本物だか、夜陰の夢の日々の快楽が本物だか、わからない。
荘子はそれでいいではないかという。考えてみれば、われわれはいつだって夢うつつのようなもの、誰かに会いたい、夜はおいしいものを食べたい、いつかお金を儲けたい。そう思っているときは、まさに夢うつつにいるだけなのだ。それが思想といったって芸術といったって、結局は夢うつつの行ったり来たりなのである ( 132夜 ) 。思想も芸術も経済も、最初からあったわけがない。どこかで誰かが夢うつつになったのだ。
ただ、このような漠然とした考え方や見方は、世間に通用しっこないと思われてきた ( 366夜 ) 。「夢うつつだなんて、いいですね」と人は言うものの、そこには侮蔑や軽視やおバカさんだねえという憐憫があらわれていた。そんなことじゃ世間に通用しないよと言われつづけたものなのだ。
ところが荘子は、ちょっと待ちなさい。その夢うつつにこそ通用があると言ってみせたのである。
〜
原文に、こうある。「筌は魚を在(い)るる所以なり。魚を得て筌を忘る。蹄は兎に在るる所以なり。兎を得て蹄を忘る。言は意に在るる所以なり。意を得て言を忘る。吾れいずくにか、かの言を忘るるの人を得て、これと言わんかな」。
〜