松岡正剛の千夜千冊・1622夜
ポール・G・フォーコウスキー
『微生物が地球をつくった
- 生命40億年史の主人公 -
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あるとき、植物プランクトンを感知するための特殊な蛍光光度計が奇妙な信号をキャッチした。光度計は酸素がない深さを調査していたので、その信号を送った生物は海の上のほうにいる植物プランクトンではなかった。信号はどこから届いたのだろうか。どうも海底に近い。いろいろ調査してみて、フォーコウスキーはこの生物が「地球に酸素ができる前にいたであろう生物」と同じものだろうと推理した。緑色硫黄細菌だったのである。
緑色硫黄細菌は嫌気性の細菌(bacteria)である。ということはシアノバクテリア(藍藻)のようには酸素を発生しない光合成をする細菌で、もっぱら海中に生息する。
ふつう細菌は光合成をしない。ところが緑色硫黄細菌や紅色硫黄細菌は硫化水素などの硫黄イオンをつかって光合成をする。ただし酸素があると死ぬ。
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1カ月ほどして黒海からイスタンブールに戻ったフォーコウスキーは、街のそこかしこで売っているトルコ絨毯のあれこれに目を見張った。
商人が自慢した絨毯はノアの方舟の絵柄を織っていた。アララト山に方舟が乗り上げた図柄で、そこに生き物たちと人間が描かれている。この物語は、神が人間に生き物の管理を委ねたという物語である。フォーコウスキーは、方舟の物語には微生物のようなものがまったく勘定に入っていないことを、神話や宗教には「人間の等身大から見えるものたち」しか語られてこなかったことを、あらためて感じていた。
本書の原題は『生命のエンジン』(Life's Enginens)である。このタイトルのほうがずっといいが、邦題は『微生物が地球をつくった』になった。中身はたしかにそういう内容も少なくないのだが、地球をつくったというよりも、やはり生命のエンジン(ナノマシン)をつくった微生物の姿を見せることが本書の役割だ。
フォーコウスキーは微生物の視点から生命体にひそむ数々のナノマシンを取り出して、みごとな説明を加えた。
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いまではすべての生物が「真性細菌」(bacteria)、「古細菌」(archaea)、「真核生物」(eucarya)という3つのドメインのいずれかに帰属することがわかっている。われわれヒトは真核生物である。
この分け方は、1977年にイリノイ大学の生化学者で遺伝学者のカール・ウーズとジョージ・フォックスが、すべての生物は細胞小器官のリボソーム(ribosome)をもとに派生分布していることをあきらかにしたことから確立した見方だ。この見方がいい。このことをいいかえれば、リボソームは細胞の中でタンパク質を合成している部処だから、すべての生物はタンパク質合成機構の歴史にもとづく生命ネットワークでつながっているということでもあった。
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しかし何万年もたつとそんな炭素14でもほとんど崩壊してしまう。石炭や石油は何千万年も前の産物だから、炭素14では時代は測定できない。こういうときはウランの同位体のように半減期が何億年もあるものをつかう。
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1953年、カリフォルニア工科大学にいた31歳のクレア・パターソンは、ディアブロキャニオンのクレーター跡で見つかった隕石の中の鉛の同位体を測定した。ウランの2種類の同位体が崩壊してできたものだということがわかった。このとき、地球の年齢が約45億5000万年前にさかのぼりうることが見えたのである。
この測定は注目された。それなら生命はどうか。生命はこの45億年以上の地球誕生の壮大なプロセスの、いったいどこで誕生していたのか、大いに関心が集まった。
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生体分子はいろいろな化学結合をおこすけれど、その結合はほぼ高エネルギー化合物(high-energy compound)をめざす。その場合はリン酸無水結合がエネルギーのもとになる。
そうした生体で使えるエネルギーの通貨はATP(アデノシン3リン酸)という分子のかっこうをとる。核酸分子1個と糖と3個のリン酸基がつながっているのがATPだ。
生体反応が進むと、これらが切れてATPはADP(アデノシン2リン酸)とリン酸になる。この「切れ」で化学的エネルギーが生じ、これが多くの反応や生体反応のさまざまな目的に使われる。タンパク質の合成、運動エネルギーの捻出、陽子・ナトリウムイオン・カリウムイオン・塩基イオンなどを細胞膜を通しての押し込み、形態の変化などが進む。
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やがてミッチェルの弟子のリヒャルト・アルトマンがミトコンドリアを発見し(1177夜・1499夜参照)、その内部には膜のネットワークがあって、膜の一方の側には他方の側よりも多くの陽子があることに気がついた。陽子の濃度が高いほうから低いほうへ移動するとATPができていたのである。ミッチェルはこのプロセスを「化学浸透」と呼んだ。
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フォーコウスキーは書く。「ATPは自然のどこにでも見られる。植物の根にも葉にも、動物の筋肉や神経の活動にも及んでいる。ATPはすべての生物の生死にかかわるものであり、膜に依存するので、すべての生物は細胞膜をまたぐ電気勾配を維持しつづける。そこに共役因子によるリバース・エンジニアリングがおこっている」。
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自然界には安定した硫黄の同位体が4種類ある。硫黄の軽いほうの同位体は重いほうのものより振動数が速く、隣の原子と衝突する頻度が高い。
2000年、ジェームズ・ファークァー、フイミン・ボー、マーク・シーメンスの3人が同位体量を精密に測定できる質量分析器を使って、堆積岩の中の硫黄の同位体にはきわめて変わったパターンが見られることを示した。オーストラリアのシアノバクテリア由来のホパノイドを含む岩石では同位体構成はかなりでたらめなのに、24億年前からこっちの同位体では、その構成が中性子の個数の分布に応じるパターンになっていたのだ。
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酸素が放出される以前は、海洋中の硫黄は誰もがよく知る「腐った卵の臭い」をもつ硫化水素のかたちをとっていて、その多くが深海の火山活動やブラックスモーカー(熱水噴射口)から供給されていた。それがシアノバクテリアなどの微生物の出現によって変わっていったのだ。
が、それだけではなかったのである。フォーコウスキーは微生物の活動が窒素循環にも変化を与えたはずだと見た。
地球上で最も豊富にある元素が窒素であるが、それらは二つの窒素原子でできていて三重の化学結合で結び付いている。だからけっこう安定しているのだが、その窒素に幾らかの水素が加わると、微生物はアミノ酸や核酸をつくる気になったのである。
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かくてフォーコウスキーは窒素循環が微生物の活動に依存していて、そのためイオウの循環とほぼ同じパターンをあらわしていることに気がついた。この微生物は化学的自己栄養生物で、電子が余っている分子、アンモニウムイオン、電子が足りない分子、酸素との電気勾配などを部品としてことごとく編集活用して、驚くべきナノマシンをつくりあげたようだった。本書の推断はそういうふうになっている。なんともかっこいいシナリオだ。
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もっともこういうことは、微生物がのべつおこしてきた現象でもある。たとえば、われわれの生活の日々にとってもおなじみの発酵(fermentation)と腐敗(putrefaction)だって、そもそもがきわめて両義的なのである。どちらも微生物が有機物質を分解することで生じるわけだ。発酵は嫌気的な糖を分解し、腐敗はタンパク質などの窒素を含む有機物質を分解する。生化学的には発酵も腐敗も生物の循環を支えている現象なのである。
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もっとめんどうなことがおこることもある。それがルビスコ(Rubisco)の使い勝手が悪くなるときだ。
ルビスコはリブロース・ビスリン酸カルボキシラーゼ/オキシゲナーゼの頭文字をとったタンパク質複合体の名称である。酵素としてもはたらく。
一般にはほとんど知られていないけれど、ルビスコは地球で最も豊富なタンパク質であって、地球上で最も重要な生化学反応を担っている。人類を含むすべての動物は生存そのものがルビスコにかかっている。
それというのも、ルビスコはあらゆる酸素生成のための光合成生物や多くの化学独立栄養生物の、二酸化炭素の固定に関与しているからだ。地球大気に酸素が十分に蓄えられる以前から、すでに微生物たちはルビスコを活用し、二酸化炭素濃度が今日の地球よりずっと高いときに進化した。
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フォーコウスキーは、ルビスコのように本来の機能が地球の進展につれてヤバイ状態になっていくことを「凍結代謝偶発事態」と呼んでいる。そして、この事態を切り抜けるために遺伝子が新たなプログラムソフトを書き加えるように、ルビスコの機能を保管してきたことに注目した。
生体ナノマシンが地球事態に即応しなかったぶん、遺伝子があたかも機種をこえて対応するソフトプログラムのように各ナノマシンをまたいで、最適化を試みたのである。
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