松岡正剛の千夜千冊・1708夜
G・W・F・ヘーゲル
『精神現象学』
〜
1770年はカントが『感性界と叡知界の形式と原理について』やヘルダーの『言語起源論』が上梓された年で、当時はゲーテ(970夜)の『若きウェルテルの悩み』やレッシングの『賢者ナターン』が話題になって、ドイツ人の眠りがゆっくりと覚めつつあった時期にあたる。
〜
絶対知がどういうものであるか、残念ながらヘーゲルは最終章になってそのことをうまく表現できてはいない。
「精神みずからが大きな円を描いて完結を迎えているような知」とか、「自己によって捉えられることのない純粋な自己」とか、「精神が完成するということは、みずからが何であるかを、つまりはみずからの実体を完全に知るということなのだから、この知るということは精神がみずからの内に向かうということであり、そこでは精神はみずからの現実の存在を捨て去り、みずからの形態を記憶にゆだねるのである」とかと書いてはいるのだが、どうにもまどろっこしい。
ぼくはこのあたりは、むしろ『華厳経』(1700夜)の法界論や海印三昧のほうがうまく言いあらわしているのではないかと、のちのち思ったものだ。華厳の蓮華蔵世界観は「事法界」と「理法界」を理事無礙法界から事事無礙法界にまで進捗されたのだった。「ヘン・カイ・パン」(一にしてすべて)というなら、こっちなのだ。
〜
存在論では、質と量のカテゴリーをつかって「存在-無-生成」のありかたを問い、これを「提言-否定-揚棄」という弁証法(Dialektik)に仕立てた。有名な「テーゼ→ジンテーゼ→アウフェーベン」のヘーゲル弁証法の最初の提案になった。
弁証法用語として大流行した「アウフェーベン」(Aufheben)は、日本語では止揚とか揚棄とか、なかなかやっかいな訳語があてはめられてきたが、長谷川さんはこれは「捨てつつ持ち上げる」という意味なのだから、それがわかれば「捨てる」でもいいはずだと言う。
〜
ドイツ語の「法」(Recht)は「法であり権利であり正義である」という意味をもっているので、ここで法哲学と呼ばれているのは、法律のことだけではなく、道徳や人倫(共同体精神)を内包した世界思想あるいは世界観の基準をあらわわしていた。人倫には家族や市民社会も含まれていた。だからヘーゲルの法哲学は「自然法と国家学」という副題をもっていた。自由を実現するための基準、それが法哲学だったのだ。
〜
アレクサンドル・コジェーヴは1933年から6年にわたって『精神現象学』の講義をパリの高等研究実習院でおこなった。聴講生にはアンドレ・ブルトン(634夜)、ジョルジュ・バタイユ(145夜)、メルロ=ポンティ(123夜)、ジャック・ラカン(911夜)、レイモン・アロン、ロジェ・カイヨワ(899夜)がいた。コジェーヴの講義は『ヘーゲル読解入門』(国文社)になっている。
スラヴォイ・ジジェク(654夜)はヘーゲル哲学をラカンの鏡像理論によって読み、「実体は主体である」を導いた。
〜